胡桃の芯
驚いた。今年の春頃、病院から自宅に戻ったというので訪ねると、自力で起き上がれないのに、むりむり起きて煙草に火を付けた。点滴で生きている身体だが、ウイスキーをもたしなむという。医者からの余命宣言などまったく関係ないような、いつもの頑固な山崎がそこにいて、私は感動した。山崎は出会ってから死去するまで、一貫して心のポケットに強固な胡桃のような芯を持ち歩いている男だった。そこが魅力だった。
17歳のとき、私たちは友人になった。家に遊びに行くと、広い応接間を彼がひとりで占拠している。家族には誰ひとり入らせないと言った。愛読書は航空関係の本。飛行機のことを話しだすと止まらない。自分の思いのまま過ごしている。すごい男だなあと思った。ある日「カメラマンになる。コマーシャルはやらない」と私に宣言した。私も何か表現に関わることがしたいと漠然と考えていたけれど、何ができるのか見当もつかなかった。はっきりとした未来を見据えていることに感心した。
20代のとき、私が入った寺山修司の劇団に彼も誘った。1年ぐらいして、彼は寺山の妻・九條今日子さんに有名カメラマンを紹介してもらった。その人に開口一番「カメラマンになりたかったら、親が山ひとつ持ってなけりゃだめ」と言われ、彼は二度とその人の名前を口にしなかった。その人の写真を、「高い機材があれば誰でも撮れる」と言った。私も賛同した。
彼の初めての個展は銀座のガレリア・グラフィカだったように思う。1枚購入した。私が作品を買ったのはこれが最初で最後である。
16ミリの映画をつくるグループに誘うと、「悪いなー、萩原よりいい作品つくるよ」と言って笑った。「OBSERVATION 観測概念」や「Vision」「HELIOGRAPHY」など本当にいい作品をつくった。
仲間で事務所を開設するので誘った際、「浴室を暗室にするけどいいか」と言うのでもちろん承知すると、結局台所も現像室として占拠した。子供のときの応接間と同じでおかしかった。
今年春の自身の個展であいさつできたのは奇跡のようだった。言葉がよく出せない状態だったのに、マイクを持って話しだした。会場は、モノクロで見事に空間設計されており整然とした山崎らしい展示だった。写真に対する姿勢「コンセプトは写真に奉仕する」を頑なに貫き通したことがよくわかる素晴らしい個展だった。あいさつが終わって私は拍手した。生き方も作品もその頑なさを生涯貫いたことに、私は拍手した。
(『美術手帖』2017年8月号「INFORMATION」より)