藤田嗣治を世界的な画家へと押し上げたものとは何か?【3/3ページ】

「乳白色の裸婦」誕生へ

 面相筆による細く長く引いた墨線は、藤田の画業全体を特徴づけるものとなっていく。そしてこの墨線のために編み出された新技法こそ、「乳白色の下地」だった。

 タルク(滑石粉)を混ぜることでつくられる白くつるつるした下地は、墨による線を滲むことなく長く柔らかに引くことを可能にしてくれるものであり、この下地の滑らかさを最大限に引き出すために、藤田は支持体にもこだわり、自らカンヴァスを手づくりしている。また、輝く白さを活かすために使う色数は減らされ、モノトーンに近い画面となった。

 ついに「独自のもの」と呼べる技を編み出した藤田は、西洋絵画の伝統的モチーフである裸婦像に挑戦。できあがった作品を、同じく「乳白色の下地」を活かしたほかの2点の作品とともにサロン・ドートンヌに出品、見事に入選を果たす。

 当時のフランスにおいて、裸婦は第一次世界大戦後の復興と成長を象徴するモチーフとして高い人気を集めていた。また、絵具を厚く塗ったり、荒々しい色彩と筆致による絵が流行していた中で、選び抜かれた線で縁取られ、白く滑らかな肌を持つ藤田の裸婦像はひときわ目を引いただろう。すぐに買い手がついた。

 その後も藤田は裸婦像を描いてはサロン等に出品し続けるが、その背景には、1924年から一緒に暮らし始めた女性リュシー・バトゥーの存在もあった。リュシーの雪のように白い肌に感嘆した藤田は、彼女に「ユキ」という呼び名をつけ、その肌の美しさを画布に表現するため、絵具の研究を重ねた。リュシーや彼女が連れてくる女性たちに、藤田の創作意欲は大いに刺激され、単身像だけでなく群像表現にも挑戦するようになる。とくに1923年には「豊作年」とも呼べるほど、多くの作品が描かれた。

 1931年にリュシーと別れた後は、ダンサーである新しい恋人マドレーヌをモデルに、それまでにないしなやかさを備えた裸婦を描くようになった。裸婦というモチーフは、藤田にとって「乳白色の下地」の魅力を大いに活かせるものであり、当時の画壇の流行とも合致していた。

藤田嗣治 マドレーヌの肖像 1932 紙に水彩、墨 34.5×33cm 個人蔵(エルサレム、イスラエル)
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 E5785

 何よりも藤田自身の「描きたい」という情熱が作品誕生の根にあったのは言うまでもあるまい。それが作品に力を与え、日本人画家「FOUJITA」の名をフランス画壇に轟かせることにつながったのだろう。

 新しいものと古いものが入り混じり、刺激にあふれるパリで、藤田を含め世界各地から集まった芸術家の卵たちは皆、「特別な存在」になることを夢見ていた。実際にその夢を叶えるのに必要なものとは何か? 藤田は、モディリアーニやピカソら志を同じくする仲間と交流し、影響を受けながらも、独自の画風をつくり出すための「模索」を続けた。流行に流されることなく、敢えてその逆を試みることで道を開こうとした。そのヒントとなったのが、自身のルーツである東洋の表現だ。荒波に揉まれながらも、「世界の中の日本人」として自分の芯を持ち、情熱を燃やし続けたことが、藤田を世界的な画家へと押し上げたと言えよう。

 展覧会では、作品を見ながら藤田の抱いた「情熱」へと思いを馳せてほしい。