葛飾北斎(1760〜1849)は、生涯のほとんどを生まれ育った本所割下水(現・東京都墨田区)で過ごし、90歳の死までひたすら画を追求した、日本が世界に誇る江戸時代の絵師だ。
その名(号)を変えること30数余、もっとも知られる「冨嶽三十六景」のシリーズは「為一」と号した70代の作だ。いま、多くの人が知るところである「北斎」すらもあっさりと弟子に売っている。
執着のなさは生活にもみられ、転居すること90回以上、下町の長屋で掃除もせず、部屋がいっぱいになると必要なものだけを持って移り住んだという。
酒は飲まず(一説には甘党だったとか)、料理もしない。食器もなく、買ってきたものをそのまま食し、空包みも放置して、そのなかで画業にいそしんだ。着物にもこだわりなく、粗末ななりを町の人に笑われるのをひそかに楽しんでいたふしもあったらしい。金銭にも無頓着で、人気絵師として当時では法外な画料を得ていたにもかかわらず、つねに貧しい暮らしだったようだ。
そこから見えてくるのは、己の絵に対する自信と、そのさらなる追求だけが彼のこだわる世界だったこと。自ら「画狂」と名乗ったように、画に魅入られ、画に生きた生涯は、死に際して「天が私の命をあと10年、あと5年保ってくれたら、本当の『画工』になれたのに」とつぶやいたという逸話にも表れている。
「冨嶽三十六景」シリーズや『北斎漫画』をはじめ、挿絵を含めると3万点超ともいわれる北斎が遺した作品には、すぐれた肉筆画も含まれる。おもに注文制作のため美人画や花鳥画が多いが、北斎の画はそこに収まりきらない表現へと広がっていく。そこには、勝川春章から学んだ画法にとどまらず、琳派、狩野派、土佐派、漢画に西洋画まで、あらゆる技法を習得し、あらゆる事象をとらえて、独自の画を創生していく北斎のたゆまぬ探求とその才能を見出すことができる。
今回は、国内美術館に収蔵される北斎の肉筆画からいくつか紹介しよう。
移り変わる画号と作風
北斎の画業はその主要な画号で分けられる。ここでは、勝川門下時代の「春朗」(20代~30代前半)、勝川派を離れてからの「宗理・辰政(ときまさ)」(30代後半~40代前半)、「葛飾北斎・戴斗(たいと)」(40代後半~50代)、「為一(いいつ)」(60代~70代前半)、「画狂老人卍」(70代半ば~晩年)の各時代を追ってみたい。
数ある北斎の美人肉筆画のなかで、最初期のものとして確認されているのが、「婦女風俗図」(永田コレクション)だ。無款ながら、春章門下として「春朗」を名乗っていた時代の特徴から、30歳頃の作品とされる。花魁と振袖新造、町家や長屋の女房、御殿女中に町娘と、当時の各階層の女性が描かれた、まさに風俗画としての「浮世絵」だ。
北斎研究で知られた永田生慈のコレクションは、浮世絵のみならず肉筆画も充実している。一括して島根県立美術館に寄贈されている。永田コレクションの《鍾馗図》は、「春朗」の落款を持つ本画(完成作)としては唯一確認されている貴重な一作。漢画の影響を強く感じさせるものだ。中国の故事に倣い、鬼を退治する鍾馗図は病除けの絵とされ、なかでも朱描きは、疱瘡(天然痘)除けの効験があるとされた。画のために長寿を望んでいた北斎は、臆病と言えるほど病気を恐れていたようで、娘の見舞いにさえ逃げ腰だったとか。そんな彼は生涯を通じて「鍾馗図」を描いており、晩年の肉筆画はすみだ北斎美術館で見ることができる。なお、島根県立美術館ではこれら永田コレクションの全貌を公開する展覧会「 永田コレクションの全貌公開」の一章が2023年2月3日より予定されている。
35歳頃に勝川派を離れて襲名した「俵屋宗理」からは、琳派の画風を学んでいたことも察せられる。しかし長くとどまることなく40歳前には「北斎辰政」を名乗り、摺物や狂歌絵本などとともに、肉筆画の注文に応えていたようだ。瓜実顔でやわらかい表情が「宗理美人」として人気を取ったこともあり、このころのものとしては美人画が多く遺されている。
MOA美術館所蔵の《二美人図》はこの時期の代表作とされ、重要文化財指定の一作。立ち姿の花魁と座る芸者の絶妙な構図が両者の視線を絡ませて、画面にニュアンスを添える。抑えめで上品な彩色の衣装もすばらしく、40代ですでに独自の画技を習得していることを感じさせる。
美人画では軽やかな淡彩の作も見逃せない。細見美術館に収蔵される《夜鷹図》は30代後半の作。蝙蝠が飛ぶ夏夜の柳の下に下級遊女の姿をさらりと描いた一作で、スッと背筋の伸びた後ろ姿には、遊女の嘆きと矜持が読み取れるようだ。
軽やかで的確な筆さばきの傑作とされるのが、太田記念美術館にある《見立式三番》である。能の演目の見立て絵で、右から千歳、翁、三番叟の暗示となっている。すばやく、のびやかな着物の線には、肉筆画ならではの北斎の技を堪能できるだろう。
40代前半の風景画は《萩の玉川図》(板橋区美術館)を挙げておこう。 北斎には珍しく静かで穏やかな作品だが、これは歌枕である「六玉川」を題材とした6図で屛風仕立だったもののひとつと考えられている。小川のさりげない風景は、萩の花から源俊頼の和歌を想起することが期待されて描かれた。同じ屛風からの作品として《井手の玉川》(千葉市美術館)や《千鳥の玉川》(すみだ北斎美術館)が見られる。
1805年頃から「葛飾北斎」と号した彼は、読本の挿絵で人気絵師として知られていく。以後、「北斎改め」や「前(さき)の北斎」として改号したことからも、「北斎」の名が世間では定着したようだ。宗理様式の美人画からも脱し、「北斎」の画が確立していく時代となる。