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3つのキーワードから紐解く。イギリス風景画の巨匠、ジョン・コンスタブルの表現世界

イギリス風景画の巨匠といえば、まずJ.M.W.ターナー、そしてジョン・コンスタブルの名が挙げられる。彼らは、当時ヨーロッパにおいては下位におかれていた「風景画」というジャンルを刷新し、その地位を大きく引き上げることに貢献、印象派にも影響を与えた。三菱一号館美術館では、日本では35年ぶりとなるコンスタブルの回顧展が開催中。本稿では3つのキーワードをもとに、コンスタブルの描く世界、そして展覧会の見所を紹介する。*本展は緊急事態宣言により会期途中で閉幕となった

文=verde

ジョン・コンスタブル ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日) 1832発表 キャンバスに油彩 130.8×218.0cm テート美術館蔵 (C)Tate

サフォーク地方──コンスタブルの原点

 ターナーとコンスタブル。同じ時代に風景画家として活躍し、年齢も一歳しか違わない二人は、生い立ちから何から、正反対の存在だった。それは、主題(モチーフ)の選択においても、例外ではない。

 ターナーは、国内やヨーロッパ各国を幅広く旅し、「絵になる」要素、ドラマ性や歴史を想起させるモチーフを探した。対して、コンスタブルはほとんどイギリスを出たことがなかった。描いたのも故郷サフォーク州はじめ、ハムステッドやブライトンなど、自分や家族、友人と関りの深い場所に限られている。

ジョン・コンスタブル フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景) 1816-17 キャンバスに油彩 101.6×127.0cm テート美術館蔵 ©Tate

 彼の描いた風景には、ターナーの絵にあるようなドラマ性や、歴史を想起させるモチーフなどはほとんど見当たらない。神話に出てくるような、穏やかで理想的な美しさを備えた風景とも違う。あるのは、例えば、なだらかに連なる低地と広い空。遥か遠くに立つ教会の塔。草や木々のみずみずしい緑。製粉所の堰から流れ出る水。川を行きかう船。これらだけでは、「絵になる」とは到底思えまい。

ジョン・コンスタブル デダムの谷 1805-17 キャンバスに油彩 52.8×44.8cm 栃木県立美術館蔵

 だが、コンスタブルにとっては、これら一つひとつが、子供時代の思い出と密接に結びついた風景の構成要素であり、彼の感情を呼び起こしてくれるもの、画家としての彼の原点だった。

 ロンドンに出てロイヤル・アカデミー美術学校に入学した後も、彼は毎年夏には、故郷に戻っては、父の製粉所のあったフラットフォードや、デダム渓谷周辺などをテーマに、作品を制作することを習慣としている。

 慣れ親しんだ風景と直に向き合い、わきあがってくる感情や記憶を受け止めながら、目の前の自然を忠実に、ありのままに描いていく。そうすることで、コンスタブルは、「絵になりそうにない風景」を、一枚の絵へと昇華させていったのである。

ジョン・コンスタブル ハムステッド・ヒース、「塩入れ」と呼ばれる家のある風景 1819-20頃 キャンバスに油彩 38.4×67.0cm テート美術館蔵 ©Tate

雲の研究

 どのような場所をモチーフとして描くにせよ、風景画に決して欠くことができないものがある。空である。

 空は時間帯や天候次第で色合いを変えるだけではない。風景画においては、画面全体の明るさ、雰囲気に大きく影響を与える。コンスタブルは、このような空の特性、そして絵の内部における重要性に気づいていた。

 1821~22年にかけて、彼はハムステッドで、空を観察・研究し、100点近くもの習作を描いている。具体的にそのうちの1点を見てみよう。

ジョン・コンスタブル 雲の習作 1822 厚紙に貼った紙に油彩 47.6×57.5cm テート美術館蔵 ©Tate

 分厚く、立体的に盛り上がった箇所もあれば、逆にかすれたように薄くなり、下の青がのぞいている箇所もある。裏には、制作した日付と時間、天候状態や風向きなど詳細なデータも記録されている。空、そしてそこに浮かぶ雲は刻一刻と変化し続け、一か所に留まることはない。

 その様をつぶさに観察し続け、スケッチを繰り返していたコンスタブルの作品において、雲は単に空にあるだけのもの、キャンヴァスに置かれた絵の具の塊ではない。現実のそれのように少しずつ形を変えながら、動いていくようにも見える。

 彼の描く風景の活き活きとした魅力は、このような空の描写に支えられていると言っても、過言ではあるまい。

1832年、ターナーとの直接対決

 ターナーが10代で才を発揮し、史上最年少の26歳でアカデミー正会員になったのに対し、コンスタブルが画家を志し、美術学校に入ったのは23歳のときだった。43歳でようやくアカデミーの準会員になり、正会員になるのは更に10年がかかっている。「大器晩成」型だったと言っていいだろう。

 そんな対照的な二人が、相見えたのが、1832年、ロイヤル・アカデミー展においてである。コンスタブルが描いたのは、《ウォータールー橋の開通式》。これは、1817年、ロンドンのウォータールー橋の開通式に取材したものである。コンスタブルは現地で数点のデッサンを行ったが、それから15年をかけて、構想を練り、仕上がった作品は縦約1.3メートル、横約2.2メートルと、彼の作品のなかでは最大のサイズのものになった。

ジョン・コンスタブル ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日) 1832発表 キャンバスに油彩 130.8×218.0cm テート美術館蔵 ©Tate

 前景には、ホワイトホールの階段から、船に乗り込む皇太子と彼に従う軍隊。川岸にひしめく群衆。彼にしては珍しいテーマだが、木々の緻密な描写や、はるか遠景で、雲間から差し込む光が橋の向うの建物(サマセットハウス)を照らし出す様は、これまでの作品とも通じるものがあると言えるのではないだろうか。

 ターナーが、この展覧会に出したのは《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》だった。黒くうねる波に対し、奥では、雲間から海面に向け、斜めに薄日がさし、船の帆を橙色に染めているのが印象的である。

J.M.W.ターナー ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号 1832 キャンバスに油彩 91.4×122.0cm 東京富士美術館蔵 Ⓒ東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom

 じつは、この絵は、ただ海を進む風景を描いているだけではない。イギリスの歴史上の重要な出来事、名誉革命がテーマとして組み込まれている。

 それは、1688年、議会が時の国王ジェームズ2世を追放し、娘のメアリー2世とその夫オラニエ公ウィレム(後のウィリアム3世)を共同統治者として迎え入れた、というもの。

 そして、このオラニエ公ウィレム配下の提督の一人の旗艦の名前こそがユトレヒトシティ号である。つまり、この絵は新たな国王となるオラニエ公夫妻とその一行の船出を描いた一場面、という歴史画としての側面を持っている。

 ターナーは、もともと早い時期から海の絵を得意とし、アカデミーでも高く評価されていた。この《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》にも、強い自信を持っていたことは想像に難くない。しかし、それがコンスタブルの《ウォータールー橋の開通式》と同じ部屋に飾られると知ったとき、彼は危機感を覚えた。

 歴史画的要素を含んでいる点は同じだが、サイズはコンスタブルの作品の方がやや大きかった。また、青や銀色など寒色系でコンパクトにまとめているターナーに対し、コンスタブルの作品は、燃え上がるような暖色で仕上げられ、インパクトもある。このままでは、自分の作品の方が見劣りしてしまう。

 悩んだ末、彼は作品展示後に最後の手直しが許される「ヴァニシング・デイ」を利用することにした。前景の海面に小さく赤い絵の具の塊を置き、ブイの形に仕上げたのである。ターナーのこのような行為に対して、コンスタブルは、次のようなコメントを残したと言う。

 「ターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していったよ」。

 身近に親しんだ「自然」を、ありのままに描くことからスタートし、独自の世界を切り開いたコンスタブル。晩年になると、サフォークやハムステッドといった馴染みの題材を扱いながらも、「ありのままに描く」ことから離れ、虹や風車など本来はその場にはないモチーフを組み込むなど、想像力を駆使して制作する姿勢も見せるようになる。

 今回の回顧展では、そんな彼の画業を、ターナーはじめ同時代人の作品と比較しながら、見渡すことができる。是非、足を運んでほしい。

ジョン・コンスタブル ヴァリー・ファーム 1835 キャンバスに油彩 147.3×125.1cm テート美術館蔵 ©Tate
ジョン・コンスタブル 虹が立つハムステッド・ヒース 1836 キャンバスに油彩 50.8×76.2cm テート美術館蔵 ©Tate

編集部

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