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2019.9.10

ジャンルを超えるマンガの極北、梶本レイカを読む(1)岩下朋世評

梶本レイカは鬼才のマンガ家である。男性同士の性愛とロマンスや、実在の事件をもとにしたサスペンス、さらにホラー、ノワール、ヤクザものといった様々な要素を内包しながら、独自の表現へと昇華する。 BLレーベルから『高3限定』『コオリオニ』などのコミックス刊行を経て、2016年より青年誌『ゴーゴーバンチ』で『悪魔を憐れむ歌』の連載を開始。クライムサスペンスである本作は、各巻の帯の推薦文を映画評論家の町山智浩やライムスター・宇多丸、暴力団関連の著作で知られるライターの鈴木智彦が担当するなど、多方面で熱い支持を得ている。暴力が物語をドライブさせ、社会のはみ出し者が跋扈するなか、圧倒的な筆致で描かれる「痛み」と「救済」。過激な表現を使いながら人間同士の関係性にフォーカスする梶本作品には、現代社会に寄る辺なさを覚える読者を、せめてマンガの世界で抱きとめるようとするかのような誠実な手つきが宿る。 そんな梶本レイカの作品世界に迫る、2本の論考をお届けする本企画。まずはマンガ研究者である岩下朋世が、「リバ」というキーワードや「顔」の描かれ方の多面性から、作品の構造とその特異性を論じる。

文=岩下朋世

梶本レイカの著作。左より『高3限定』第1巻(ふゅーじょんぷろだくと)、
『コオリオニ』上巻(ふゅーじょんぷろだくと)、『悪魔を憐れむ歌』第1巻(新潮社)
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めくるめく「リバ」な語り

 梶本レイカ『コオリオニ』(ふゅーじょんぷろだくと、2016)は、北海道警の腐敗を満天下に知らしめた“稲葉事件”に着想を得て描かれた、北海道警の銃器摘発のエースである鬼戸とその情報提供者である暴力団幹部・八敷を主人公とする物語だ。ふゅーじょんぷろだくとが刊行する『BABY』に連載されたこの作品は、いわゆるBL(ボーイズラブ)作品である。しかし、実在する事件に題を取り、警察組織と暴力団の癒着関係のなかで、腐敗しきった世界に過剰なまでに適応しきったように見えながらも、その出会いをきっかけに破滅的に逸脱していくふたりの姿を目を背けたくなるような血腥さも交えて描いた『コオリオニ』は、一種のノワールとしてふだんはBLを読む機会の少ないであろう読者にも広がり、話題を呼んだ。

 例えば自身もノワールの書き手として知られるミステリ作家の深町秋生は、発売間もない時期からこの作品に言及している。その激賞ぶりは、Twitterでの「年に何度か『完敗だ。筆折ろ』と思う時がある」(*1)といった口ぶりからも明らかだ。同年に、やはり稲葉事件を題材とした映画『日本で一番悪い奴ら』(白石和彌監督)が公開されたことも、この作品がジャンルの枠を越えて広く受容される文脈を形成した要因のひとつだろう。

 私自身、BLというジャンルに留まらず話題になっている様子にSNSを通じて触れることがなければ、この作品を手に取る機会を逸していたかもしれない。とはいえ、この作品を読んで私が感じたのは、そのような受容のあり方から得ていた期待とはいささか異なる感触であった。つまり、この作品はなによりもまずBLである、と感じたのである。しかし、そのいっぽうで、この作品の、そして梶本レイカ作品における男同士のパートナー関係の描く手つきこそが、この作品をBLというジャンルを越えて受容される理由なのだろうとも感じたのだった。ここでは、そうした感触から考えたことについて書き留めておきたい。

 もっとも、私自身について言えば、様々なコンテンツに描かれる男性同士の関係をBL的な解釈に基づき積極的な誤読をすることは日常的にあり、その意味ではある程度“腐った”目を持って言えるものの、正直なところ、自分がBLというジャンルを熱心に追いかけている読者であるとは言い難い。したがって、以下に書き留める内容においても、BLに関する一般的な理解とは異なる面があるかもしれない。そのことについてはあらかじめ断っておく。

梶本レイカ『コオリオニ』上下巻(ふゅーじょんぷろだくと、2016)。右が北海道警察の鬼戸圭輔、左が暴力団幹部の八敷翔

 『コオリオニ』はなによりもまずBLである。私がそう感じたのは、そこに男性同士のセックスが濃厚に描かれているからというわけではない。肝心なのはセックス描写の有無でなく、ふたりのパートナー関係が物語において、どの程度の比重を持って描かれているかである。警察組織や裏社会を舞台とした物語においては、陰惨な事件や利権をめぐる裏切りと策謀に満ちた争いを通じて男たちの絆が濃厚に描かれ、一種のブロマンスの様相を呈することはしばしば見られる。というよりも、そうした男同士の絆こそが、この種の物語の大きな魅力のひとつと言えるだろう。『コオリオニ』もまた、そうした血腥い世界における男同士の関係が描いているわけだが、その比重においては、鬼戸と八敷の関係性をめぐる内容が圧倒的であり、稲葉事件をモチーフとした一連の出来事はその背景と化しているとすら言える。

 たとえば、第7話「オニごっこ」では56ページのうち、実に30ページ以上が鬼戸と八敷のふたりきりの場面に充てられている。八敷が組を手中に収めて勢いづくいっぽうで、鬼戸は警察組織のなかで追い詰められてゆく。さらには、彼らと親交の深かった密輸業者のロシア人・バシコフも、警察のなかでの鬼戸の立場を守るための「お手柄」として、ふたりにハメられ、逮捕されてしまう。クライマックスに向けて状況はめまぐるしく動いていくが、そうした出来事の推移は、1コマに1ページ、あるいは見開き2ページを費やすこともあるふたりきりの場面の合間で、その半分以下のページ数のなかに押し込まれ、慌ただしく描写されてゆく。このように事件が後景に退いていくことは、鬼戸と八敷が世界から孤立化し、逸脱してくこと、あるいは、初めから孤立しており、逸脱しきっていたことを自覚しふたりだけの世界へと入り込んでいくことと対応している。駆け足に描かれる周囲の状況と大きなコマを用いて描写されるふたりのやりとりとの、そこに流れる時間の差には、世界がふたりを置き去りにしたようでもあり、ふたりが世界を置き去りにしていったようでもある。

 ふたりの男のパートナー関係を描くことに物語と描写が純化していった結果、彼らを取り巻く世界が後景化していくという点では、潜入捜査官と情報提供者という『コオリオニ』にも通じるモチーフを扱った『ミ・ディアブロ』(ふゅーじょんぷろだくと、2010)も同様である。世界が背景と化していった結果、出来事や状況の描写はけっして分かりやすいとは言い難く、時に不親切さをも感じさせる語り口は『コオリオニ』にも見受けられるものだ。

 また、破滅的な展開の末に訪れる、主人公の今際の際に見ている夢なのではないのかと思わされるような拍子抜けするほどのハッピーエンドぶりにおいても、『コオリオニ』と『ミ・ディアブロ』の両者は共通している。ふたりは自分たちを取り巻く世界を離れ、ふたりきりの世界へと旅立っていく。その点では、そのハッピーエンドが現実であろうと夢想であろうと大差はないのだ。

多面的な顔の描写

  『コオリオニ』や『ミ・ディアブロ』では、ミステリやサスペンスとしての構造を置き去りにしかねないほどのバランスで、主人公カップルの関係へと描写は傾斜していく。そうでありながら、あるいは、だからこそ、その物語はやはりサスペンスに満ちている。それは、そこで描かれるパートナー関係、そしてそれぞれのキャラクターの造形が張り詰めた緊張感をもって提示されていくからだろう。どちらが支配的な位置にあるのか、どちらが巻き添えにされているのか、どちらが利用されているのか。その力関係は容易に反転するし、キャラクターの「顔」も多面的に描かれ、読み進めるほどに彼らが何者であるのか、その本当の顔はどんなものか、読者にとっても判然としないものになっていく。『コオリオニ』であれば、八敷の他者から見た顔、人間性について、そのかつての想い人であった佐伯の視点から描いた第5話の「コオリの女王」などに、梶本のキャラクター造形における典型的な手つきを見ることができる。このエピソードでは第3話「ごっごのはじまり」で描かれた八敷の過去、佐伯との出会いと別れまでの顛末が、佐伯の視点から描かれる。そこに現れるのは不幸な運命に翻弄され道を踏み外した哀れで美しい男ではなく、他人を巻き込み食いつぶしながらのびのびと享楽にふける、ひとでなしとしての八敷だ。八敷の顔がそれまでとガラリと変わって見えてくる第5話に続く、第6話「ヒトごっこ」は鬼戸の過去編であり、必死にマトモな人間のふりをしてきた鬼戸もまた、その本性は一種のひとでなしであることが明らかになっていく。それぞれのバックグラウンドが明かされることで、ふたりはそれぞれの組織の利益のために互いを利用しあおうとする関係から、この世界から逸脱した者として互いが互いを解放させる関係へと変化していく。

  『コオリオニ』でも見られる、ほかの人物から見た異なる側面、異なる「顔」を描くことで、読者が今まで見ていた世界をぐるりと反転させていくダイナミックな語り口。それがそのまま物語の構造自体に反映されているのが『高3限定』(ふゅーじょんぷろだくと、2012〜13)である。舞台は中高一貫の全寮制男子校。主人公・小野耕平は、秘かに慕う教師「イケダ」が目をつけた生徒の高校3年の1年間限定、「高3限定」で愛人にしているという噂を聞き、彼に告白する。かくしてイケダと耕平の交際が始まることになるのだが、イケダの全身は何者かに暴力を受けたのか、痛ましいほどにボロボロだった。耕平はイケダをなんとか救おうとするが、その先には到底信じがたい秘密が待ち受けることとなる……。

 重要なガジェットのひとつとしてスナッフビデオが登場することにも示されているように、身体の損壊描写などは苛烈なまでに残酷である。閉鎖的な町、奇妙な伝承、隠蔽された事件、そして物語の始まりからは予想もつかないような現実離れした展開が耽美的な筆致によって描かれる『高3限定』は、『コオリオニ』がノワールであるならば、ホラーの文脈、より具体的にはスプラッターパンクとでも言うべき作品として読むことができるだろう。『高3限定』第3巻のあとがきで、梶本はこの作品の根幹となるアイデアを思いついたきっかけは、「あってはならない本当に凄惨な事件の詳細」を記した本を読んだことだと回想しているが、実際の凄惨な事件に取材したものとして、たとえば筆者が思い出すのはポピー・Z・ブライトの小説『絢爛たる屍』などである。男性同性愛を通して描かれる耽美かつ酸鼻な世界は、ホラーではお馴染みのものだ。

 もっとも、ここで取り上げたいのは、その残酷描写についてではなく、すでに述べておいたように、『高3限定』における「顔」の描かれ方である。『コオリオニ』においては、登場人物がいくつもの顔を持っており、そのことが主人公ふたりの関係に緊張をもたらすものとなっていた。『ミ・ディアブロ』でも同様の仕掛けはなされており、情報提供者となるマフィアのミゲルは、じつはその正体は俳優であり、そもそも警官ジェイクをハメるためにマフィアを演じさせられているに過ぎない。

 もちろん、『高3限定』でも、こうした別の側面、隠された正体としての異なる「顔」は描かれているわけだが、注目すべきは、より直接的に、文字通りの意味で、同じキャラクターにいくつかの異なる「顔」が採用されている点である。

 たとえば、第1話(第1巻、p.13)では、耕平の視線の先にあるイケダの姿が描かれる。耕平の目に映るイケダはかくも美しい。だが、その姿は仮初めのものであることが次第に明かされていく。たとえば、イケダの歯は実は総入れ歯である。彼は耕平を試すかのようにそれを外し、オーラルセックスを挑む。耕平が見ていたイケダの「顔」に対する印象はこうして揺るがされるのだが、やがてほかの人物には、そもそもイケダの顔は美しいものとして見えていなかったことも示されることとなる。耕平の親友・トミーによる語りでは、「気味が悪い」「老人の様でした」と語られ、トミーかの視線から見たイケダの顔が描かれる(第1巻、p.118)。部分的にしか描かれないものの、その顔は、耕平の視線の先にあるイケダの姿とは大きく異なる印象を与えるものだ。

 さらに物語が進んでいくと、「イケダ」という名前も、彼の本当の名前ではなかったことが判明し、また、その身体は歯が総入れ歯なだけでなく、片方の眼も義眼であり、そのほかの様々な部分も人工的なつくりものであり、メンテナンスが必要なものであることが明らかにされてゆく。こうしたイケダの身体や顔をめぐる描写は、「キャラクター」の生成原理をめぐる寓話として読解することも可能だろう。なにしろ、物語の結末近くで明かされるように、イケダはそもそも「何をしても、死なない子」として生まれたのである。

 こうした設定は「記号的身体」として造形された傷ついたり死んだりすることのないキャラクターが、そうであるにもかかわらず、傷つき死にゆく存在となり内面を得ていくという、戦後の日本マンガの主題として大塚英志が提起した「アトムの命題」(*2)を想起させずにはおかないだろう。彼は自分自身の身体の不死性を支えている物語を信じることをやめることでその命を失う。現実の存在となること、人間となることは、彼にとって死と直結している。

 いっぽうで、耕平も物語の終盤において様々な「顔」で描かれることになる。未読の者に楽しみを残しておくために子細な種明かしはしないが、時間の経過から置き去りにされた耕平は、高校時代から数十年を経ても、若々しい姿で年老いた親友・トミーの前に幾度も現れる。しかし、トミーは「あの頃と同じまま」とは言うものの、実際には、そばかすの有無、なによりも眼鏡をかけているか否かで、高校時代の耕平との描き分けは明確である。しかも、すでに現実から逸脱した存在となった耕平は、その心理に応じて、大人として描かれることもあれば、高校時代の姿で現れもするし、時には幼い子供の姿になりもする。

 『コオリオニ』では、鬼戸と八敷は次第に、互いが同類であることが明かされていき、彼らはこの世界から離れてふたりだけの世界へと旅立っていくわけだが、ここで描かれているのはイケダと耕平の反転である。イケダは現実を受け入れ、虚構としての不死性を失う。いっぽうで、耕平は現実を拒み、虚構の世界へと踏み込んでいく。物語の構成そのものと一体化するようにしてふたりの関係性はひっくり返されていく。だからこそ、両者の究極的な入れ替わりを描く、ほとんど魔術的なクライマックスがそこに現れることになるのだ。

 オリジナルであれ、いわゆる二次創作であれ、男同士の関係がBLとして受容される際には、カップルにおいてどちらが「攻め」でどちらかが「受け」であるかが、その関係性を描く際に重要なのは言うまでもない。攻めと受けの関係は固定的である場合も多いが、時にはパートナー間での攻受交代が行われる場合があり、そのような描写を含む作品はリバーシブルを略して「リバ」と形容されることがある。梶本の作品のなかで、はっきりと「リバ」が描かれるのは、このマンガ家にとっては珍しくバイオレンスやオカルトと縁遠い『Call me, Call』(東京漫画社、2014)の最終話である。しかし、ここまで見てきたように、梶本のBLでは関係性の反転こそが繰り返し描かれてきたものである。その意味では、『Call me, Call』に限らず、その作品はいずれも「リバ」なのだと言えるだろう。そして、パートナー間の関係性の反転を描く際に、その物語世界をももろともにひっくり返してしまうその語り口にこそ、BLに親しんでいないような読者をも巻き込んでしまう力強さがある。ジャンルの枠を超えて評価されるものについて、しばしば「これはもはや〇〇ではない」といった言辞が用いられる。しかし、少なくとも梶本のBL作品については、そうではなく「これはまさにBLである」と言うべきなのだ。

 もっとも、完結が待たれる『悪魔を憐れむ歌』(新潮社、2017〜、*3)は、流通や掲載誌の問題だけでなく、ふたりの男の関係性を描くことに純化していくのではなく、「箱折事件」の謎をめぐって物語が展開しているように見える点で、従来のBL作品とは異なるように思える。そのいっぽうで、ぐるりと世界をひっくり返す「リバ」な語りは、ますますもって自在に駆使されている。この物語の先に待ち受けるのがふたりの世界なのか、それともまったく別の場所なのか。それはいずれわかることになるだろう。

 

*1──深町秋生(@ash0966)2016年4月13日のツイート
https://twitter.com/ash0966/status/720262255284080640
*2──大塚英志『アトムの命題』(徳間書店、2003)など。もっとも、「記号的身体」のキャラクターで「傷つき死にゆく身体」を描くことには原理的な困難があるとする大塚の議論について、筆者は必ずしも同意しない。むしろ、類型的なキャラ図像の造形は、マンガにおいてそうした描写を行ううえで効果的なものであるはずだ。ここではこれ以上の深入りはしないが、詳しくは拙著『少女マンガの表現機構』を参照のこと。
*3──『悪魔を憐れむ歌』は最新4巻が2019年6月に発売。新潮社での雑誌連載は終了し、続きはウェブで自主的に公開していく予定だという。「コミックバンチweb」(http://www.comicbunch.com/manga/tue/sympathy_ftd/)より一部試し読みが可能。