EXHIBITIONS
平野遼「Emerging from the Void」
人物像や心象風景をテーマに、孤高の視点から人間存在の本質を問う絵画を描いた画家・平野遼。1927年大分県に生まれた平野は、若くして画家を志し、戦後間もなく似顔絵やポスターを描いて生計を立てながら、独学で絵画を習得。55年頃にリアリズムから抽象へと作風を転じ、57年に東京の南画廊で開催された個展をきっかけに、前衛芸術サークルの中で作家としての頭角を現した。
当時、平野が発表した水彩や蝋を用いた作品に対して、美術評論家の瀧口修造は「この作家の追求は恐らく最初にかたちとして予定されたモチーフからではなく、画面のマチエールを塗ったり削ったりしながら徐々に像をとらえていくといった方法にある」と言葉を寄せ、同時期のアンフォルメルやアクション・ペインティングといった抽象画運動と異なり、目に見える世界を内省的イメージとして具現化していく手法に注目した。
60年代に入ると、平野の画面は線やシミによってかすかな幾何学模様を構成するミニマリスティックな画風へと発展。70年代以降は、傾倒するアルベルト・ジャコメッティの影響から、細い線の集合体で人物像を描いた。そして、自画像、昆虫や植物、解体、闇といった有機的でグロテスクさを孕んだテーマを、たしかなデッサン力と表情豊かなマチエールによって抽象的に表現する画風を確立した。
本展では、平野が50年におよぶ生涯で制作した作品群より、60〜90年代のペインティングとドローイングをあわせた20点を展示。1992年に作家が世を去った後、2000年以来の東京での個展となる。
当時、平野が発表した水彩や蝋を用いた作品に対して、美術評論家の瀧口修造は「この作家の追求は恐らく最初にかたちとして予定されたモチーフからではなく、画面のマチエールを塗ったり削ったりしながら徐々に像をとらえていくといった方法にある」と言葉を寄せ、同時期のアンフォルメルやアクション・ペインティングといった抽象画運動と異なり、目に見える世界を内省的イメージとして具現化していく手法に注目した。
60年代に入ると、平野の画面は線やシミによってかすかな幾何学模様を構成するミニマリスティックな画風へと発展。70年代以降は、傾倒するアルベルト・ジャコメッティの影響から、細い線の集合体で人物像を描いた。そして、自画像、昆虫や植物、解体、闇といった有機的でグロテスクさを孕んだテーマを、たしかなデッサン力と表情豊かなマチエールによって抽象的に表現する画風を確立した。
本展では、平野が50年におよぶ生涯で制作した作品群より、60〜90年代のペインティングとドローイングをあわせた20点を展示。1992年に作家が世を去った後、2000年以来の東京での個展となる。