EXHIBITIONS
青山と70年
岡本太郎記念館で「青山と70年」が開催されている。
岡本太郎が青山にアトリエを構えたのはいまから70年前の1954年5月のこと。同地は生まれてからパリに渡るまでを両親と過ごした大切な場所であった。ところが戦争から戻ると一面の麦畑となって家や作品といったあらゆるものが空襲で失われており、裸一貫からの再出発を余儀なくされた太郎は、それでもくじけることなく戦後日本の美術界に斬り込んでいく。1946年の復員から8年を経て、太郎は青山に戻ることができた。
いまも旧館として残るアトリエ住居を設計したのはパリ時代の盟友・坂倉準三で、現場担当は所員の村田豊。ともに現代建築の父ル・コルビュジェの事務所で腕を磨いた建築家たちだ。壁にブロックを積み、屋根は木材を曲げ、ふたりは金のない太郎のために徹底したローコスト建築を実現した。
そうして足場を固めた太郎の快進撃が始まる。生涯のパートナー・岡本敏子が「戦闘基地」「塹壕」と呼んだこの場所で、日本の美術界を挑発する様々な作品を制作し、社会に送り出していった。
本展は、当時の息吹をいまに伝える旧館建物とともに、ここ青山で胎動した岡本藝術のバックグラウンドにスポットライトをあて、70年前に始まった青山と岡本太郎の物語をたどる。
岡本太郎が青山にアトリエを構えたのはいまから70年前の1954年5月のこと。同地は生まれてからパリに渡るまでを両親と過ごした大切な場所であった。ところが戦争から戻ると一面の麦畑となって家や作品といったあらゆるものが空襲で失われており、裸一貫からの再出発を余儀なくされた太郎は、それでもくじけることなく戦後日本の美術界に斬り込んでいく。1946年の復員から8年を経て、太郎は青山に戻ることができた。
いまも旧館として残るアトリエ住居を設計したのはパリ時代の盟友・坂倉準三で、現場担当は所員の村田豊。ともに現代建築の父ル・コルビュジェの事務所で腕を磨いた建築家たちだ。壁にブロックを積み、屋根は木材を曲げ、ふたりは金のない太郎のために徹底したローコスト建築を実現した。
そうして足場を固めた太郎の快進撃が始まる。生涯のパートナー・岡本敏子が「戦闘基地」「塹壕」と呼んだこの場所で、日本の美術界を挑発する様々な作品を制作し、社会に送り出していった。
本展は、当時の息吹をいまに伝える旧館建物とともに、ここ青山で胎動した岡本藝術のバックグラウンドにスポットライトをあて、70年前に始まった青山と岡本太郎の物語をたどる。