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ポール・セザンヌ

Paul Cezanne

 ポール・セザンヌは1839年、フランスのエクス=アン・プロヴァンスに生まれる。58年、銀行員の父・ルイ=オーギュストの跡を継ぐため、法科大学に進学。父の希望に反して、セザンヌはデッサン教室に通い、パリですでに小説家として活動していたエミール・ゾラとの文通を支えに画家を志す。60年、父に新古典主義風の壁画で自身の画力を示し、翌年にパリ行きを実現させる。61年からパリのアカデミー・スミスに通うが、都会の暮らしが合わず1年も経たないうちに帰郷。結果、父の後継として銀行で働く。仕事に身が入らない息子を見かねて、オーギュストは生涯のパトロンとなることを約束し、再びセザンヌをパリに送り出す。

 ウジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・クールベ、エドゥアール・マネも通ったアカデミー・スミスは指導者を設けない自由な気風で、セザンヌは思うがまま、死や肉欲などをテーマとした私的な絵画や肖像画を描く。独学で制作した絵画はサロンでは審査対象とならなかったが、出品を続けることでアカデミックな体制に反発する。この頃、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと知り合う。74年に開催された第1回印象派展に出品。第4回展以降は参加せず、絵画の画面構成を探求するため独自の道を歩み始める。

 95年に画商アンブロワーズ・ヴォラールの計らいで初個展を開催。セザンヌの画業を一望できる機会として、ピサロやルノワールらは歓喜する。1900年、パリ万国博覧会に出展。01年にはブリュッセルの自由美術展から出品を依頼されるなど、時代を先取りした作品が晩年にようやく評価される。写実性が重視されていた絵画に一石を投じ、《林檎の皿》(1875〜77頃)、《マンシーの橋》(1979〜80)、《大水浴》(1906)などに見られる円筒・球体・円錐形また水平や斜線といった画面構成を取り入れた。その功績から「近代絵画の父」と呼ばれ、キュビスムをはじめとして後世代に多大な影響を与えている。06年没。