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ジャン=フランソワ・ミレー

Jean-François Millet

 ジャン=フランソワ・ミレーは1814年フランス・ノルマンディー地方のグリュシー村生まれ。農民の生活をありのままに描いたバルビゾン派の画家。実家の農業を手伝う傍ら、19歳より村近くの町シェルブールでポール・デュムシェルに絵を学ぶ。父が死去すると一度修業をやめるが、祖母から絵を続けるようにすすめられ、ルシアン・テオフィル・ラングロワに師事。この頃、古典文学や聖書を熱心に読む。奨学金を得て、37年にパリの国立美術学校に入学。しかしローマ賞、サロンで結果を出すことができず39年に奨学金を絶たれる。

 40年に《ルフラン氏の肖像》がサロンに初入選。肖像画家として活動することを決めて、シェルブールに帰る。初期は、ロココ風やマニエル・フルーリの華やかな技法を用いた、ぼかし気味でツヤ感のある画風の風俗画や肖像画を制作。しかしさほど注文を受けることなく、結婚したばかりの妻・ポリーヌを連れてパリに戻るも、裕福な家庭出身のポリーヌが貧困に耐えられず、44年に結核で亡くなる。再び帰省して、2番目の妻となるカトリーヌ・ルメールとの交際をはじめ、同じ頃、パリで後のバルビゾン派となるシャルル・ジャックらに出会う。

 48年、パリで開催された展覧会でジャン・シメオン・シャルダンやル・ナン兄弟の風俗画を鑑賞し、影響を受ける。同年に2月革命が勃発。共和派が勝利するとサロンも民主化し、フィリップ=オーギュスト・ジャンロンが美術館総監に就任する。一時出品時の審査が撤廃され、農民の労働に焦点を当てた最初の作品《箕をふるう人》(1847〜48)を出品。だが保守派が優勢となると旧体制に戻る。コレラの流行も重なって、仲間とともにバルビゾン村に移住し、以降ここを拠点に制作を行う。50年に《種をまく人》(1850)と《藁を束ねる人々》(1850)を出品。保守派の画家から共和派を支持するものとして非難される。55年、第1回パリ万国博覧会が開催。政治色のない風景を主題としたテオドール・ルソーやカミーユ・コローら一部バルビゾン派の画家が評価を得るいっぽう、ミレーが出品できたのは《接ぎ木をする農夫》のみ。またギュスターヴ・クールベは参加を拒否され、レアリスム館と名づけた会場で単独個展を行う。

 57年に《落ち穂拾い》を発表。貧困や格差を示唆していると酷評されるいっぽう、農民の崇高さを見事に表現しているとして高く評価もされた。同作品は、67年の第2回パリ万国博覧会で好評を得て、画家の躍進を後押しした。また、同時に展示され、農民の敬虔な祈りを描いた《晩鐘》(1857〜59)は、とくにアメリカのプロテスタントに好まれた。晩年は自然に関心を寄せ、作品は風景を中心に神秘性が増して、象徴主義を先取りしている。75年没。ミレーに影響を受けた著名な画家にフィンセント・ファン・ゴッホやサルバドール・ダリなどがいる。日本でも1880年代に紹介され、1978年の山梨県立美術館開館時に《種をまく人》が日本で初公開された。同館の「ミレー館」ではミレーとバルビゾン派の作品を見ることができる。