ARTISTS
エドヴァルド・ムンク
Edvard Munch
エドヴァルド・ムンクは1863年、ノルウェー生まれの画家。64年、一家はクリスチャニア(現・オスロ)に移住。虚弱体質な家系で、5歳のときに母を、14歳のときに姉を亡くし、幼い頃から死が身近にあった。79年より工業専門学校で技師の勉強をするが、画家を志して退学。80年に王立美術工芸学校に入学する。84年、旧体制に反発した前衛芸術家グループ「クリスチャニア・ボヘミアン」に参加し、師と仰ぐ作家のハンス・イェーゲルと出会う。「クリスチャニア・ボエーム」の戒律のひとつ、「汝は自己の生涯を語らねばならない」という一項が、後に自己の内面を表現するムンクの制作における核となる。
89年、パリを初訪問。トゥールーズ=ロートレックも通ったレオン・ボナの画塾で短期間学ぶ。《ラファイエット通り》(1891)など印象派の影響が見られる作品を手がけるが、《サン・クルーの夜》(1890)で、苦悩や愛、真の人間を描いていくことを宣言。明るい色彩を取り払った実質的な処女作《病める子》(1885-86)で、印象派と一線を画す。
92年、ベルリン芸術家協会の招聘で個展を開催。その独創性は不評で、皇帝の不興も買って会期中に中断され、画家の名を広める出来事となった。この個展で展示された《接吻》(1892)はムンクの画業の中核をなす連作「生命のフリーズ」のうちのひとつ。もっとも知られる作品《叫び》も含まれており、病めることが美徳とされた世紀末の空気感や、自身が侵された病を通した生と死への不安感が反映されている。「生命のフリーズ」は時系列ではなく、テーマごとに展開され、ムンクが自身の恋人たちに向けた愛や男女の苦悩をたどるものでもある。同シリーズは版画も制作された。
1908年、コペンハーゲンの精神病院で療養。回復すると青年期とは対照的な穏やかな日々を過ごし、自然や労働者など新たな主題に取り組んで、晩年にようやく国民的画家として認められる。44年没。
89年、パリを初訪問。トゥールーズ=ロートレックも通ったレオン・ボナの画塾で短期間学ぶ。《ラファイエット通り》(1891)など印象派の影響が見られる作品を手がけるが、《サン・クルーの夜》(1890)で、苦悩や愛、真の人間を描いていくことを宣言。明るい色彩を取り払った実質的な処女作《病める子》(1885-86)で、印象派と一線を画す。
92年、ベルリン芸術家協会の招聘で個展を開催。その独創性は不評で、皇帝の不興も買って会期中に中断され、画家の名を広める出来事となった。この個展で展示された《接吻》(1892)はムンクの画業の中核をなす連作「生命のフリーズ」のうちのひとつ。もっとも知られる作品《叫び》も含まれており、病めることが美徳とされた世紀末の空気感や、自身が侵された病を通した生と死への不安感が反映されている。「生命のフリーズ」は時系列ではなく、テーマごとに展開され、ムンクが自身の恋人たちに向けた愛や男女の苦悩をたどるものでもある。同シリーズは版画も制作された。
1908年、コペンハーゲンの精神病院で療養。回復すると青年期とは対照的な穏やかな日々を過ごし、自然や労働者など新たな主題に取り組んで、晩年にようやく国民的画家として認められる。44年没。