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海北友松

Yusho Kaiho

 海北友松は豊臣政権下で活躍した絵師。1533(天文2)年、近江国坂田郡(現・滋賀県)に生まれる。父は近江浅井家の重臣。幼い頃に東福寺に出家していたが、主家、父兄の死を受け、73(天正元)年頃に還俗したと伝えられる。武門の再興を願い武芸に励んだが、やがて狩野派に学んだ絵の才能が花開き、60代以降は絵師として活躍する。狩野永徳より10年早く生まれているが、友松の絵師としての活動期はむしろ永徳没後の四半世紀であり、桃山画壇の覇権争いから距離を置いた晩成型の孤高の絵師であった。義に厚く妥協を許さない気質を伝えるいくつかの逸話が残されており、友松自身は武家出身でありながら画業で立つ我が身を嘆いていたという。しかし98(慶長3)年、石田三成に従い九州へ赴いた際には、すでにその画才には一定の評価があり、翌99年、三成らの推挙で、再建された建仁寺方丈の障壁画を手がけることになる。力強く気迫に満ちた阿吽の《雲龍図》は友松の代表作であり、ほかの塔頭にも友松作が数多く残る同寺は「友松寺」ともあだ名された。晩年、公家や宮家との交流によりさらに画域を広げ、亡くなる直前まで絵筆を振るった。1615(慶長20)年没。その名は「龍の名手」として海を渡り朝鮮にまで伝わった。