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パルコ開業55周年×細野晴臣活動55周年×田名網敬一生誕88周年を祝う「HAPPY HOLIDAYS」。クリエイティブディレクター・宇川直宏インタビュー

パルコの開業55周年を祝う特別企画「HAPPY HOLIDAYS」が現在公開中。時を同じくしてデビュー55周年を迎えた細野晴臣をキーパーソンに迎え、生誕88周年のアーティスト田名網敬一を象徴するモチーフやキャラクターがそのビジュアルを彩っている。去る8月9日の田名網の訃報から少し時間が過ぎたいま、本企画のディレクションを務めた田名網の一番弟子・宇川直宏に、今回の企画主旨と田名網への思いについて話を聞いた。

聞き手=岩渕貞哉(「美術手帖」総編集長) 構成=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部) 撮影=軍司拓実

弔辞に秘めた田名網敬一さんへの哀悼の言葉

岩渕貞哉(以下、岩渕) 10月15日、個展「田名網敬一 記憶の冒険」開催中の国立新美術館(新美)の会場で行われた「田名網敬一お別れの会」では弔辞を読まれたんですよね。ただ、メディアなどには追悼のコメントは出されていないですね。

宇川直宏(以下、宇川) はい。追悼文はずっと出せませんでした。いや、出せる状況になかった。新美での大回顧展のオープニングでは、開幕の儀として関係者への挨拶と乾杯の音頭を田名網先生に代わり僕が取りました。葬儀やお別れ会などでも、NANZUKAの南塚くんとともにすべての追悼に関わり言葉を贈りましたが、文章にはまだできていませんでした。なので、先日の弔辞が僕からの哀悼の言葉になりますね。SNSの時代へと突入してから世間では故人に対して、皆それぞれが弔辞に代えて、思いの丈をサイバースペースで語りあうようになりましたよね。一般のファンや熱狂的なクラスタから弟子、息子、妻、立場に関係なく、平等に故人を偲ぶ言葉がタイムラインに流れてくる。僕だけに限らず皆このことをSNSのポジティヴな側面のひとつだと思っているはずです。前世紀までには可視化できなかった、人間の憎悪の感情がカジュアルにぶちまけられるようになったことと同時に、個から個への哀悼の意が地球の裏側まで拡散されるようになった。このことによってインターネットは無名有名問わず人々を平等に生かし続けています。これは葬儀に代わるデジタルな弔いのかたちですよね……。しかし(田名網先生の訃報については)自分にとって重すぎて簡単には出せませんでした。そういう意味では、今回のこのパルコのプロジェクトが、ある意味弟子から師匠への芸術的な葬礼の儀になったのだと思います。

岩渕 宇川さんは田名網さんの「一番弟子」として、長くともに活動されていましたからね。

宇川 じつは田名網先生が亡くなる3ヶ月前に超ロングインタビューを行う機会を与えられました。今回の大回顧展にあわせて「?/ˈsɪmbl/」というレーベルから田名網先生のアーティストブックを4冊同時に出版したのですが、そのうちのひとつのプリンティング作品を年代順にまとめた最終巻『SPARK』に掲載するためのものでした。それまでの3巻は、田名網作品を現代アートの角度から掘り下げていたんです。いわば作家の幼少期からの生い立ち、戦争体験、記憶、表現の変遷といった人生と創造性との関係をあぶり出すようなオーラルヒストリーですよね。しかしこの最終巻ではその文脈から距離を置いて、印刷というフィールドから作家の表現を見渡すまったく新しい考察になっていました。田名網敬一は、アートやデザインという言葉が日本ではまだ一般には広く流通されていなかった時代から表現を始めている作家です。なのでその活動は印刷技術の歴史とも並走している。このような珍しい角度から先生のことを深掘りする機会を与えられたことによって、田名網敬一の新たな佇まいを死の直前に嗅ぎ取ることとなりました。総尺、全11時間。文字数、12万字。狂ってる(笑)。とにかく、存命中にこの対話が残せたことによって、互いの人生においての世代を超えた共有や、歴史的な奥行き、またや尊敬の意すらも深みを増した感じがしています。

 まず、田名網作品を見るに、その表現の根底には戦争体験に基づく拭い去れないトラウマがあるということが明らかにわかりますよね。太平洋戦争、東京大空襲、爆撃の光に乱反射した畸形の金魚。そうでなければこんなにもB-29や零戦をモチーフにしないし、そしてその後のアメリカに毒された日本文化の姿や、濃艶で淫猥な“権威としてのハードコアポルノ”なんてあえて描かない。だからその想像の源について話を伺うっていうヒアリングのプロセスは、もはや定番になっています。最晩年にそれを乗り越えたオルタナティヴなインタビューができたことは大変な歴史的、文化的な価値を秘めていると思っています。戦争の話は一切出てこない。では、どこから話を聞けたのかというと、マンガ家を目指していた中学時代の田名網少年の心のなかの声が、88歳の魂を経由してあらためて聞けたんです。田名網少年がどのように文化を享受し、何にフェティシズムを感じ目覚めたのか、そしてどのような嗜好が88歳まで地続きとなり、創作に反映され続けてたのか。そのことを聞くことができたんです。

宇川直宏

編集部