融合するポップとキッチュ
子供時代 1936-1956
田名網敬一は1936年に東京・京橋の服地問屋を営む両親のもとに生まれた。田名網の幼少期の体験と記憶は、その後の作品に大きな影響を与えている。1942年に転居した中目黒では、目黒雅叙園にあった赤い太鼓橋を描いた絵に魅了された。1944年から東京で本格化した空襲では、白金の祖父母の家で、庭先の大きな水槽の中の金魚たちが、火災や照明弾の光で妖しく輝いて見えたという。また、空襲で死んだ女性の顔をありありと覚えているとも書き記している(*1)。実体験の記憶がしばしば書き換えられているとする田名網にとって、これらのエピソードは実際とは異なるかもしれないが、後年に作品のモチーフとなって回帰するほど強力なものでもあった。戦後、田名網は、アメリカの映画やコミックに魅了され、映画館に入り浸り、映画雑誌の女優の写真を切り抜いていたという。これもまた、後年の作品に回帰することになるだろう。田名網の初期の体験と記憶は、戦争と性、そして、グロテスクな美しさに関わっている。
ポップ以前 1957-1963
高校時代、田名網は美術に興味を持ち、美術大学への進学を希望するが、心配する母親を説得するため、油絵ではなくデザインを学ぶとして、1956年、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)のデザイン科に入学した。田名網はデザインの授業に飽きた足らず、入学前に知り合った篠原有司男などの美術家と交遊した。田名網は、1958年から60年まで4回、銀座の画廊で個展を開催し、1957年から62年まで3回読売アンデパンダン展に出品するほど、画家として熱心に活動した。当時田名網が手がけた絵画に、金属板を化学薬品で腐食させたり、引っ掻いたり、着色したりしたものがあり、田名網は「メタリック・アート」と名づけていた。批評家の中原佑介が「おもしろい着想」で「オリジナリティがある」と高く評価するなど(*2)、田名網の絵画は、批評家から一定の評価を得ていた。
田名網は大学2年次に、有力デザイナーが集う日本宣伝美術会展でポスターの《花嫁と狼》が特選となり、在学中からデザインの仕事が舞い込むようになった。このポスターは、当時のデザイン界では禁じ手だった油絵具で描いた異色作だった(*3)。田名網はこの頃からすでに美術とデザインを横断する活動を行っていたのだ。この頃に田名網が手がけたポスターは、フリーハンドの線を多用し、絵具の質感を感じさせるものが多く、人物たちは、フランスの画家のアントニ・クラーベを彷彿とさせる画風で、デフォルメされてマチエール豊かに描かれている。1963年に限定300部で出版したヴィジュアル・ブックの『卵形』(写真は松本寿信、詩は山本太郎、田名網はアートディレクション、デザイン、イラストレーションを担当)で描かれた人物たちは、はっきりした輪郭線ながらも手描きの味わいを伝える画風で、ベルナール・ビュッフェを彷彿とさせる。ポップに出会う前の田名網は、同時代のフランスの画家からインスピレーションを得ていたことがうかがえる。
ポップの時代 1963-1979
1963年、田名網は、篠原とともに、銀座にあったイエナ書店で見た洋雑誌でポップ・アートを知って衝撃を受け、その影響を受けた作品を発表し始める。1965年に開いた個展では、ストライプ柄のジャケット、ハンガー、カレンダーの数字をモチーフにした絵画を発表し、同年の別の個展でも、同じくストライプ柄のジャケットを、ハンガーや「ORDER MADE !!」の文字とともに、様々な色や配置の組み合わせで表現した版画を発表した[図1]。後者は、田名網が初めて手がけたシルクスクリーンの作品だった(*4)。この版画作品には、戦闘機の画像が入るものもあり、ポップなイメージのなかに早くも戦争の主題が表れていた。
田名網は翌年、『田名網敬一の肖像』というヴィジュアル・ブックを発行する。紙面はコミックの形式になっており、田名網と思われる男性の顔が何度も登場するが、顔にはサングラスが掛けられ、文字やマークが重ねられて、その正体は最後まで明らかにされないという、自分自身を問うものだった。この本で田名網は、作品とは画廊で展示するだけではなく、本という形式で発表することもできることを示した。
1968年、田名網は、銀座のサイケデリック・ディスコKILLER JOE'Sにアートディレクターとして参加する一方、米国の雑誌『アヴァンギャルド』主催の反戦ポスター公募企画に応募し《NO MORE WAR》が入選した[図2]。画面の上部には戦場の写真が写り込むネクタイを握りつぶす女性の手が描かれ、「NO MORE WAR」の文字を挟んでその下部には、ジャケットにネクタイ姿の人物が描かれている。だが、その表現は《ORDER MADE!!》よりもポップな色彩となり、アフロヘアや一輪の花も添えられて、ヒッピー文化に近づいていた。1969年には写真家の原栄三郎とヴィジュアル・ブック『虚像未来図鑑』を刊行した。大胆な色彩と構成で新聞や広告、テレビなどの写真を用いたこの本は、田名網自身のグラフィックを随所に配し、加藤好弘らの万博破壊共闘派を色鮮やかな紙面で紹介するなど、情報社会におけるイメージの氾濫を、サイケデリックなスタイルでクールに表現した。
1970年、田名網は篠原を訪ねて、初めてニューヨークを訪れた。いまでは多くの観光客で賑わう中心部の42丁目は、当時はポルノショップやストリップ劇場などが並ぶ風俗街であり、麻薬の売買も行われるなど、猥雑な空気に満ちていた。田名網は、その解放的な性風俗の力に「強力なカルチャーショック」を受けると同時に、「イラストレーションの重要なアイデア」にも感じられて、性を扱うタブロイド紙や雑誌を買い求めた(*5)。そして、田名網は、ロバート・クラムなどの反社会的で過激なアンダーグラウンド・コミックも、「病んだアメリカ文化の側面が見事に抉り取られた文明批評」に感じられて惹かれたという(*6)。田名網は、1968年に欧州を旅した後、現地のポルノ雑誌に着想を得てヌードの女性を描いたが、アメリカから帰国した後、ヌードの女性の表現は、さらに大胆で、時にグロテスクなものになっていった。1970年代前半の田名網のイラストや版画、絵画には、性行為を暗示させる扇情的なポーズをとった女性のヌードが頻繁に登場した。田名網は、1975年創刊の日本版『月刊PLAYBOY』の初代アートディレクターを約10年間務めており、日本の性表現と深く関わっていた。
2012年、田名網の実家の倉庫から、自身が1967年から74年頃にかけて制作した300点ものコラージュ作品が見つかった[図3]。田名網がニューヨークで買い求めた新聞や雑誌、コミックに加えて、叔父が大量に収集していた雑誌や絵葉書も使って制作したが、発表する機会がなく保管されていたものだった。このコラージュ作品は、映画女優や女性のヌード、戦闘機やコミックのアメリカンヒーローの画像を用いており、戦争と性が重要なテーマとなっている(*7)。このシリーズは、同時代の世界的なポップ・アートの動向のもとでの日本の状況をよく示しており、田名網作品のなかで現在、国際的にもっとも高く評価されている。
田名網は、1965年にアニメーション《仮面のマリオネットたち》を制作したが、本格的に映像に取り組むのは70年代になってからである。71年に《Commercial War》、《Good-by Marilyn》[図4]や《Good-by Elvis and USA》を制作している。《Commercial War》は、コカ・コーラやハンバーガー、化粧声をあてた作品で、マスメディアや広告に対する批判を感じさせる。白人女性のヌードが繰り返し現れつつ、戦闘機や男根の代理物が登場する《Good-by Marilyn》と《Good-by Elvis and USA》は、性的衝動とない交ぜになったアメリカの主流大衆文化に対する愛着をよく表している。題名に「Good-by」とあるのは、「いつまでも彼らの仮面をつけて勝負するのは良くない」と考え、訣別の思いを込めたと田名網は述べている(*8)。実際、田名網はその後、アメリカで知ったケネス・アンガーやジョナス・メカスなどの実験的なインディペンデント映画の方向に向かい、新聞や雑誌の写真を拡大してコマ撮りした実験映像《Why》(1975)などを制作した。
キッチュとポストモダン 1980-1989
1980年、田名網は、知人の画家や評論家らとともに、改革開放政策が始まっていた中国を訪れ、上海、南京、蘇州を回った。田名網は、中国の自然に感動し、神仙思想や民衆文化に関心を持つようになった。そんななか、仕事で多忙を極めていた田名網は、翌年重い結核を患い、4ヶ月近く入院した。田名網は、薬の副作用で幻覚と夢にうなされ、病院の庭にあった松の木がぐにゃぐにゃと動いて見えたこともあったという。この松の木は、すぐに重要なモチーフとなって繰り返し登場することになる。中国旅行と入院生活は、田名網の作風を大きく変えた。田名網は、1980年代半ばには、70年代のポップな表現から一転して、鶴や亀、松といった吉祥文様(縁起が良いとされる動植物を描いた図柄)を中心的なモチーフとしたシルクスクリーン作品を制作し始めた[図5]。色彩は、赤や黒、金などを多用し、荘厳で風雅な印象を与える一方で、高層ビルが木の枝にぶら下がるなど(ダリを彷彿とさせる)、多めのモチーフの意想外な組み合わせによりキッチュな様相も呈している。同時期に制作されたアクリル絵画は、複雑に折れ曲がる松の木、判読しがたい虹色の文字、高層ビルとボクシングリングと仏舎利塔が一体となったような建造物などが描かれており(*9)、キッチュの度合いが増している。また、アジアの要素だけでなく、西洋のイメージも混在している。作品上部に黒い鶴の模型が付された《空飛ぶ人》[図6]や《天使の声》(ともに1988)は、イヌワシの剥製が付いたロバート・ラウシェンバーグの《キャニオン》(1959)を想起せずにはいられない。レンブラントの《ガニュメデスの略奪》(1635)を参照した米国の作家によるコンバインと比べると、田名網の作品は、アクリルの烈しい色彩とキャンバスに張り合わされた着物の布地とも相まって、キッチュなポストモダンと言いたくなる独特な表現になっている。そこには田名網個人の体験と記憶が色濃く反映されている。80年代リバイバルが世界的に到来した暁には、これらの作品は高い評価を得るに違いない。
田名網は、1979年から80年代を通して、木やFRPにラッカーを塗装した立体作品をつくる。女性のヌード、手、ペニス、象、松の木、擬宝珠、ボクシングリング、構造物、日本地図などが主なモチーフで、日本やアジアに関するものも多い。黒、赤、緑、金などの色彩が塗られ、パーツが外れる玩具のようなものもあるが、これらは、楽しさというよりはどこかまがまがしさを感じさせるフェティッシュな呪物のようである。ほぼ同時期に活躍したデザイナー集団のメンフィスのポストモダン・デザインと一見似ているが、田名網作品は、メンフィスのようにフラットなところはなく、むしろ不穏さを内包している点で、かえって人を惹きつける。
記憶と歴史 1990-2000
1990年代に入ると、田名網は夢や記憶のイメージを過去の美術作品と組み合わせた絵画を制作する。《蝸牛の迷宮》(1995)[図7]では、夢に出てきた天然痘の子供の姿(*10)が、葛飾北斎が描いた橋(北斎は全国の橋を描いた『諸国名橋奇覧』でも知られる)のイメージと組み合わされている。《考える愉しみ》(1991)は、松の枝が絡まるバベルの塔を背景に、フォンテーヌブロー派の《ガブリエル・デストレとその妹》(1594頃)の姉妹が描かれており、その複雑な画面構成は徹底してキッチュでグロテスクである。
なお、この時期の作品は、同時期のロサンゼルスのアートシーンとの関係で再検討できるだろう。田名網が関心を寄せたロバート・クラムは、漫画家のロバート・ウィリアムズとともに『ザップ・コミックス』で活動したが、ウィリアムズは、ロサンゼルスのダークサイドを取り上げた「ヘルター・スケルター 1990年代のLAアート」展(ロサンゼルス現代美術館、1992)の参加作家のひとりであった。とりわけキッチュ的な要素を持つ90年代の田名網作品は、ロサンゼルスのアートシーンと近い感性を持っており、その観点からの再評価が待たれる。
現在との再接続 2000-2011
2000年に東京・渋谷のギャラリー360 °が田名網の個展「60年代のグラフィックス展」を開催すると、宇川直宏や小山田圭吾などの若いクリエーターの目に留まり60年代リバイバルのなかで、現在に続く田名網の再評価が始まった。2002年と03年には主な映像作品を収めたDVDが発売され、04年には『田名網敬一の肖像』が復刻された。海外の映画祭で映像作品が上映される機会も増えた。田名網自身も、04年に宇川と二人展を開催したり、07年に渋谷の女子高生の姿と金魚の記憶を結び付けた「欲望の曖昧な対象」シリーズを始めるなど、現代の若者文化との接続が図られた。
世界の舞台へ 2011-2024
2010年代に入ると、田名網の新たな展開が始まった。60年代に手がけたポップなイメージが再び登場し、80年代以降の作品を特徴づけるキッチュな要素と融合したのだ。「迷いの橋」シリーズは、紙にインクジェットとシルクスクリーンで印刷を重ねた作品で、ガラスの粉末を部分的にまぶしており、アンディ・ウォーホルの「ダイヤモンド・ダスト」シリーズを想起させる。ウォーホルと異なり、田名網は、正面を向いた大小様々な人物たちをアジア的なモチーフとともに所狭しと並べて、独創的な画面をつくり出している。2011年には仏像に着想を得た立体作品も登場し、平面と同じくポップでキッチュな表現を展開している。
2015年には、ウォーカー・アート・センター、ダラス美術館、フィラデルフィア美術館を巡回した、世界のポップ・アートを概観する大規模な「インターナショナル・ポップ」展やテート・モダンの「世界はポップになる」展に出品して国際的な評価を獲得し、ニューヨーク近代美術館、ウォーカー・アート・センター、シカゴ美術館、M+などがコラージュ作品を所蔵することとなった(*11)。
2010年代の田名網の絵画と彫刻は、同じくポップかつ日本的な要素を持つ村上隆の作品と比較することができる。日本の戦争の記憶と戦後文化の関係を扱った「リトルボーイ」展の企画に表れているように、村上は集合的な記憶を問題とするのに対して、田名網は、戦争や性を含む個人的な体験と記憶がもとになっており、それがキッチュでグロテスクな深みを生んでいることにもっと目が向けられるべきである。
2010年代末からはさらに新たな展開が生まれた[図8]。デジタルプリントしたキャンバスに雑誌の切り抜きをコラージュした作品で、クリスタルガラスを各所に配し、アクリル絵具やインクで手を加えたものである。画面はさらに緻密になり、大衆文化、美術史、伝統、戦争、性といった要素に、田名網の個人的な記憶が重なり合い、実に深い画面がつくられている。田名網の絵画は、その名前を一躍知らしめた70年前後のコラージュと、80年代から00年代までのキッチュでグロテスクな表現を融合させた、前人未踏のポップ・アートをつくり出したのである。
最後に、田名網氏が「田名網敬一 記憶の冒険」展の開幕催直後にお亡くなりになったとの知らせを受けました。ここに謹んでお悔やみ申し上げます。
*1──『田名網敬一 記憶の冒険』、青幻舎、2024年、387頁。
*2──中原佑介「個展・グループ展評」『三彩』109(1958年12月)、65頁。*3──田名網敬一オーラル・ヒストリー第1回、池上裕子と宮田有香によるインタビュー、2013年8月1日。https://oralarthistory.org/archives/tanaami_keiichi/interview_01.php
*4──池上裕子「ポップのゼロ地点 田名網敬一の芸術における戦争と性」『田名網敬一 記憶の冒険』、82–83。
*5──田名網敬一「絵の背後にうつりこんだ時代や出来事をつぎつぎとおもいだした。」『BLOW UP-2』、青幻舎、2004年、頁数なし。
*6──同書、頁数なし。
*7──池上「ポップのゼロ地点」、81–88頁。
*8──田名網敬一オーラル・ヒストリー第2回、池上裕子と宮田有香によるインタビュー2013年8月15日。https://oralarthistory.org/archives/tanaami_keiichi/interview_02.php
*9──『田名網敬一 記憶の冒険』、152頁。
*10──田名網敬一『夢の悦楽』、東京キララ社、2017年、314頁。
*11──南塚真史「田名網敬一 魂の行方」『Quo Psyche 〝魂の行方〞 田名網敬一作品集』、afumi inc.、2024年、230頁。
All Image: ©Keiichi Tanaami Courtesy of NANZUKA