目の前には瀬戸内海の穏やかな海が広がり、背後には山腹を覆うように家々が軒を連ねている広島県尾道市。観光名所のひとつ「千光寺」から迷路のように続く坂道を下ったところに一軒の共同アパートがある。鍵のかかっていない玄関の扉を開け、「こんにちは」と呼びかけるが反応がない。玄関から見える部屋には、ダンボール板にマジックで「半田和夫」と書かれた小さな表札が貼り付けられていた。
「あのおっちゃんは、不思議な作品をつくっていたよ」。
知人の小野沙耶花さんが、そう教えてくれたのは、僕がここを訪れる数ヶ月前のことだった。恐る恐る木製の扉を開けると、そこに半田さんの姿はなかった。カーテンが締められた薄暗い室内。机の上には飲みかけのジュースやアイスクリームの容器などが散乱していて、さっきまで誰かがいたであろう家主の気配を感じた。「おっちゃんは釣りが趣味だった」という彼女の話を思い出し、僕は海岸沿いで釣りをしているおじさんたちに半田さんのことを聞いて回ったが、誰もが首を横に振るばかりで、すぐに自分の釣竿を見つめ直してしまう。仕方ないので、アパートに戻って玄関先に座り込んでいると、白髪のお婆さんが目の前を通りかかった。どうやらアパートの住人のようだ。面識はないけれど半田さんに会いに来た旨を伝えると彼女の口から出て来たのは意外すぎる言葉だった。
「あの人は、3ヶ月前に病気で亡くなったのよ」。
なんでも2本しかなかった歯が虫歯になり、自分で抜いたらそこからバイ菌が入って、癌になり病院で息を引き取ってしまったそうだ。半田さんのことを語るそのお婆さんの顔を見ているうちに、いつの間にか僕は遠い記憶を手繰り寄せていた。
僕は2000年から知的な障害のある人たちの福祉施設に勤めてきた。とくに入所施設で長く働いていたが、障害のある人たちはずっと施設で暮らしているわけではない。家庭とのつながりが深い人のなかには2週間に一度、週末になると、家族のもとに帰っている。大抵の障害のある人たちは、盆や正月などは家で過ごしており、職場ではこれを「帰省」と呼んでいた。僕は当時、ひとりの障害のある男性を担当していて、盆や正月になると車で尾道まで送り届けていた。スムーズな意思疎通が困難な彼は、見慣れた尾道の風景が窓に広がってくると「おーい」と叫んで、コンコンと窓を何度もノックする。誰だって、家に帰りたいし、やっぱり家族と過ごしたいのだ。向かいの駐車場に車を止めたら、一緒に手をつないで踏切を渡る。思わず興奮して飛び出しそうになる彼の手を僕はギュッと握りしめた。指先から彼の喜びが伝わってくるようだった。
「おかえり、よっちゃん」。
踏切の前のアパートで、いつも彼のお母さんはその言葉を準備して待っていた。そう、あのときの母親こそが、眼の前に居る白髪のお婆さんであり、僕がいつも送り届けていたその住居こそ、このアパートだったのだ。思いもよらない何年かぶりの遭逢。思い出話に花が咲いた。ひょっとすると、僕はここで半田さんとすれ違っていたかも知れないし挨拶を交わしていたかも知れない。いまから思えば、半田さんが引き寄せてくれた気がしてならない。
生活の痕跡がそのまま残された半田さんの部屋で、山積みになったプラスチックの箱を見つけた。中に入っていたのが、成人向け雑誌を短冊状に切り、木工用ボンドで固めて自作した多量の喫煙具だった。僕の目的は、この作品と出合うことだった。小野さんの話によると、切り刻んだ成人向け雑誌をボンドで固め、鉛筆や割り箸に巻きつけて緩やかな曲線をつくり、ひとつひとつ丁寧に制作していたそうだ。刻んだ煙草の葉を火皿に詰め、実際に吸い込んでいたようで、収納された箱を開けると煙草の香ばしい香りが鼻をつく。よく見ると、掃除するための煙草盆まで自作してある。ものすごい徹底ぶりだ。半田さんは、もしかするとタバコだけではなく、成人向け雑誌に浮かび上がるエロティシズムまで吸い込んでいたのだろうか。何かに揺り動かされるように僕は必死で写真を撮り、後日ご遺族の許可を得て作り手のいなくなった膨大な作品を持ち帰った。
半田さんは、1952年にこの街で生まれた。家族の話によると造船業に従事し海外にまで渡航することも何度かあったようだ。いつ頃から、そしてなんのためにこの喫煙具を自作していたのか、いまとなっては知るすべもない。ただ、これらの品々を眺めていると、出会ったこともない半田さんの情念が立ち現れてくるようだ。
そもそも、小野さんが半田さんと出会っていなかったら、僕はこの作品を目にすることさえ出来なかった。小野さんは、僕が企画したトークイベントの翌朝、尾道の海岸で釣りをしている半田さんと出会った。ヨレヨレの服にツッカケ姿で髭面の半田さんは、「そうめんでも食うか」と突然彼女を家に招き入れた。半田さんが一人暮らしと聞いて、彼女は身の危険を感じたものの、口に加えていたパイプが気になり、あとをついていった。あのときの彼女の勇気と行動力が無ければ、これらは価値がないものとして破棄され、もう存在すらしていないだろう。半田さんの作品はその後、アール・ブリュットの世界的コレクター、ブリュノ・ドゥシャルムのコレクションに加わり、いまや欧米で大々的に紹介されるようになった。
半田さんの例にとどまらず、誰に見せることもなく半世紀以上もの間、たったひとりで『非現実の王国で』と題した1万5000ページを超える小説の原稿と、数百枚に及ぶ挿絵をつくり続けたヘンリー・ダーガーのように、仲介者の手によって奇跡的に僕らが目にすることができている「作品」は、ほんの一部にしか過ぎない。この瞬間にも膨大な作品はどこかで何者かの手によって生み出され、そしてその多くが誰かに知られることなく失われていく。そうした事物の全てを保管することが困難である以上、僕らはまた次の出合いを待つしかない。そんな出合いはいつ訪れるかわからないし、もしかしたらもう僕の隣りにあるのかも知れない。