網の目の時代の「芸術」を見据える
インターネット時代のアートを考えるうえで、先日刊行されたヒト・シュタイエルの『デューティーフリー・アート』と併せて読みたい批評集である。ただし、本書に収められた論考の初出は2011~13年。ネット界の地勢図が目まぐるしく変化していく現在の目から見れば、すでに古く感じられるトピックも散見される。とはいえ、20世紀前半の歴史的アヴァンギャルド、西欧哲学から美術館・アーカイヴ論にまで目配りを利かせたグロイスの碩学ぶりは確かなもので、本書がいまなおインターネット時代の主体を探るための有益な指標となっていることは間違いない。「時間の流れ(フロー)」とともにある近現代美術の系譜を整理した歴史的考察と呼べるだろう。
インターネットは確かにアートの状況を変えた。デジタル技術によって複製が容易になった芸術作品は、誰でもアクセスできるネット上のアーカイヴに居場所を移した。近年、パーマネントコレクションの展示よりもキュレーション企画やイベント開催に軸足を置くようになった美術館は、インターネットによる情報発信と手を組みながら「時間の流動化」と同期している。また、現在においては芸術家に限らず誰もがインターネットを通じて文化的な生産物を発信する。芸術文化の受け手という意味での大衆は消滅した。グロイスによればSNSなどを通じた人々のセルフ・プレゼンテーションはコンセプチュアル・アート以降の芸術作品と区別がつかないし、ウェブサイトの視覚的文法をインスタレーションの空間の文法になぞらえることも可能だ。
前提として確認しておくべきは、そもそも主体の在り方自体が変容を被っているということだ。本書で何度かふれられていることだが、インターネット時代の主体とは国の機関などに個人情報を登録・管理された透明なパーソナリティである。パスワードによって個人の領域が守られてはいるが、個人の秘密はあくまで技術的に保護されているにすぎない。このような環境下で、近代とは異なる革命が現代の芸術実践に可能なのだろうか?
「芸術家」という主語をやたらと多発するグロイスは、それでも依然としてインターネット時代の芸術家の役割に過大な期待を寄せているように見えてならない。今日において芸術家のみが特権的主体であることはもはやありえず、抽象的な主語の扱いには警戒も必要だが、例えば第8章「グローバル・コンセプチュアリズム再訪」で示唆される、芸術家の戦略的な自己生成化の手法はひとつのヒントになるのではないか。
インターネット時代の流れに乗って、あるいは監視の目をくぐり抜けるような伏流として。現実の政治参加には果たしえないレベルの芸術実践が、本書に触発されて生まれてくるかもしれない。
(『美術手帖』2022年2月号「BOOK」より)