自己責任・制度・倫理
少し秘密の味方になって話をしてみよう。
ディエーゴ・トヌスの「Professional Secrets」展が開催されている図書室に足を踏み入れる。見慣れない光景。棚に並ぶすべての本が逆向きに配置されている。背表紙の反対側、紙がみっちりしている小口の方がこちらを向いていて、タイトルや作者名が見えなくなっている。全体的に白い。空白の図書館。作家による意図的な介入とまずは考える(実際にそうである)。知識へのアクセスを可能にする図書館という場所が端的に異化されている。本はあるけれども、選べない。これは、展覧会の中心的テーマを示している。不可視性、秘密、「隠した」ものを「隠された」まま保存すること。

この反転して裏返った図書館の中に展示された作品群は、一見すると抽象的な意匠を施された木製パネルだが、実際は「秘密の契約書」を内包している。トヌスは友人、たまたま居酒屋で出会った人物、レジデンス担当コーディネーター(彼はレジデンスプログラムで京都に来ていた)などから、それぞれの「職業上の秘密」を聞き出し、その内容を含み、かつ、それを口外しない、秘密のまま留めておくための契約書を作成する。確かに、秘密とは相互の信義に基づく誓約であり、契約でもありうる。その契約書はいくつかの符号化の方法、暗号化のコードに則って変換される。言葉の配置がデータ化された契約書。そこに幾何学的なパターンが発生する。その視覚的なデータのパターンを、薄い木片による象嵌で作品内部に埋め込み(極めて工芸的な作業である)、複雑なマテリアルの層として作品化したものが「Professional Secrets」の成り立ちである。

これまで作者は秘密を収集し、木片のパターンとして物質化し、アーカイヴ化している。私的な秘密が半ば公的なものになりつつ厳密に隠されている。秘密が物質として持続している。さらには秘密の内容が、秘密を交わした当人たちにも届かないものになっている。秘密の制度化。そしてそれは幾何学的に美しい。
言明された非─秘密の健全さ
ところで、日本でこの作品を鑑賞する機会をもった筆者は、それがいささか大袈裟で、過剰に感じられたと言わねばならない。そう感じるのは、日本において契約文化が希薄だからかもしれない。書面条項よりも、暗黙の信頼がどこかでまだ優位性を保っている。あるいは、公文書を平気で反故にするような、どこかの誰かの判断がまかりとおっているからかもしれない。
トヌスの「Professional Secrets」シリーズをもうすこし現在の日本の文化産業の文脈においてみよう。近年、アーティストの不安定な社会的・経済的立場への認識から、無償労働、不明確な業務範囲、企画者との非対称的な権力関係による搾取などが問題となっている。エンターテイメント産業のみならず美術業界でもこういった例に事欠かない。それに応答して、文化庁などの機関はアーティストと企画者のあいだで正式な契約を結ぶことを推奨している。長らく暗黙のうちにあった芸術労働の条件を可視化しようとする動きがある。
このアーティストの契約推進は、確かに必要な局面がある。脆弱なフリーランサーたるアーティストを守り、創造活動が他のあらゆる専門労働と同じ尊敬と報酬に値すると主張すること。「現代アート」が広く認知され、様々な企画者が登場している現在、アーティストを弱い立場に押し込めるあらゆる「手管」には、契約をもって、法によって対抗する道がある。この道が、しっかり推し進められるべきことはもう一度強調しておく。この文章の、ここから先は、それを踏まえたうえでの一抹の不安と展望についてのものになる。
まず想定されるひとつの批判。契約によって、すべての労働が明文化され、創造のプロセスが計量可能な生産性のように扱われてしまう。アーティストによる世界への作品の「現れ」が事前に想定可能なものに限定されてしまう。さらに言えば、この業務委託契約書の締結と、何をいくらでどうやるのかが詳述されている助成金申請、作品の意図が明言されたステイトメント、作家の概要を示すポートフォリオの作成、ウェブサイトやSNSでの広報告知、分刻みでストーリー化する存在証明などはすべて地続きである。かつてフーコーが「告白する動物」と述べた、内面を社会に晒し続ける人間の主体化=隷従化がミクロになって全体化している、ネオリベラルな自己責任論があまねく拡散している…...。
のだけれども、実際に起こっていることはそれとは違う趣がある。起伏のない、透明な告白がそこかしこで、さっくりと、てらいなく、実直に遂行されている。フーコーが考えた告解による主体化は、欲望主体化であり、とりわけ性的な欲望を中心に思考されていた。いささか男性中心的な思考であることも否めない。肉欲の秘密をめぐる人間化。これを美術という文脈にパラフレーズするならば、美という秘密をめぐって生成する、どこか実存的な重みをもった「作家」と形容しがたい深みを湛えた「作品」を産出し続ける美術制度ということになるのかもしれない。現在、過去のものとなりつつある、あるいは過去のものにするべく各所で取り組まれているのは、この神秘化された芸術概念であると考えられる。神秘化。つまり秘密の神格化をもうやめること。
そういった神秘化こそが男性が占有してきたものであり、権力者が握ってきたものであり、つまるところ、気持ち悪いものであって、そんなものなければないほうがいい。深いからいいとか、謎だから面白いとか、そんな戯言こそが権力の温床である。説明できるものは説明する。すべて把握可能、理解可能であるほうが、根本的に民主的である。素材と制作プロセスの明示、という自律性の原理の範囲が、コンセプチュアル・アートを経て、作者のアイデア、その発生の根拠、そのリソースの開示にまでひろがっている。あるいは社会学や人類学の美術への流入は、この「開示請求」と同期している。美の規則も不可視的な構造とその諸要素も、実際は説明できる。ざっくりとくくってしまって筆者も書きながらどうかと思い始めたが、ともあれこの傾向。言明された非─秘密の健全さとでも言えばいいだろうか。
この流れのうちにある作品は、あまねく「人前に出して恥ずかしくない」ものである。そのはずである。業務委託契約をしたり、助成金が取れたり、SNS上で話題になったり、税金が投下されたり、コレクターが高値で購入したりするわけだから、それが恥ずかしいはずがない(情報社会で人前に出ない、晒されない、ことなどあり得ないのだから、とりあえずちゃんとしなきゃ、という切迫が背後にあるような気もする)。
謎をうちに秘めないこと。「照れ隠し」しないこと。説明責任を果たすこと。理解への意思を堂々と打ち出すこと。告白的(confessional)な芸術ではなく、職業的(professional)な芸術。
ではトヌスの「Professional Secrets」はどこを目指しているのだろう?
ごく生真面目に間抜けな作品
その前に、ここまで読んでくれた読者のなかから、さらにほんの一部の人に届くかもしれないことを書いてみたい。
前段に出てきた堂々と立派な美術って、やるのきつくないですか? そんなことできないなぁ、そしてそれができない自分ってたぶん恥ずかしいなぁ、と思いませんか。筆者はいつも思っています。やっぱりそういうのが芸術と認められるもので、やっぱり私は恥ずかしい人間で、とてもそこまで明らかにすることができない。助成金申請もうまくできないし。作品も売れないし。映えないし。そもそも私自身が、作品自体が、もっと根本的に恥ずかしいものだしなぁ、と思った人。ここから先の文章は、そのほんの一部の、あなたのために進めます。
その恥ずかしさは、ある種の秘密です。しかし秘密があることを秘密めかす、神秘化するのとは違う道に進まなければならない。結論から述べますが、秘密こそが息苦しい社会から抜け出す源泉になりうる。恥ずかしさは、自由主義や資本主義に対抗する試金石になりうる。そして、私たちは美術をやっているのだから、恥辱を物質化する方法を知っている。秘密を唯物論化することに長けている。はずです。
話を「Professional Secrets」に戻します。
現代の新自由主義的言説において、個人は自身の労働のすべての側面を可視化し説明責任を負うことが求められています。自身の価値を正確に特定できないアーティスト、創造的プロセスを数量化できないアーティストは、非専門的に見え、現代の労働市場のルールに従うことを拒んでいるとみなされてしまう。しかしトヌスの暗号化された契約は別の可能性を示唆しています。専門性には秘密への権利が含まれうること、正当な労働には透明化されるべきでない次元が含まれうること、アーティストは労働の価値を一人で説明する責任を負う必要はないということ。というよりも、作品そのものは、いつだってパフォーマティヴに稼働することになり、その「業務範囲」は本質的に誰にも、それを生み出した作家ですらもわからない、ということ。
トヌスが作成した暗号化された契約、形式化されながら解読不可能な物質は、現代の契約文化への警鐘というより、アーティストの制度的役割について反省的な再考を促すものになっています。トヌスはたんに合意を記録するだけではなく、彼自身がアーカイブとして、独自の方法論に従って保存される職業的秘密の保証人として機能している。この自己制度化は、自身の創造性を価値化し、商品化し、社会に「晒す」こととは反対のベクトルに進んでいます。制度に依存するプレイヤーになるのではなく、自分自身が端的に制度であること。重要なのは、この自己制度化が「よくわからない価値」の保護に向けられていることです。この作品は、こう言ってしまってよいのかわかりませんが、ごく生真面目に間抜けです。大袈裟さ、過剰さは、実際には間抜けさと表裏一体となっている。たまたま居酒屋で会った男の秘密に対して、ここまでやりますか?という。

暗号化された秘密は、誰にとってもよくわからない。それに価値があるかどうかもよくわからない。よくわからないから、ここまで真剣にやっている。もう少しいうと、この作品は、人と人が出会って、お互いを信頼するという最小限の人の営みに最大限の価値を置こうとするという切実さにドライブされている。作品として物質化しているのは、この最小限の倫理的関係そのものであり、そのとても小さな倫理が、芸術として存在しうることの証明になっている。
さて、あなたに話を戻します。あなたの恥ずかしさは、そのやりきれなさは、形態がどうあれ、あなたの作品にしっかりと宿っています。そのとき、作品は、その作品自体の論理によって、やっと正当性を主張し始めます。ずっと続く労働の正当性です。作品が恥ずかしさを、その秘密を動力に稼働し始める。世界との秘密の雇用契約です。あなたはその内容を知ることはできない。そこで、転移が起こると考えてください。作品は、じつのところまったく恥ずかしくない。秘密も何もない。複雑に堂々としている。恥ずかしくなるのは、世界のほうなのです。あなたの恥ずかしいが、作品を通して、世界は根本的に恥ずかしく成り立っている、に転移する日がくる。あなたの作品の働き方こそがまともなのであって、世界がそのあまりに眩しい正当性に恥入る日はきっとくる。美術はそのためにある。それこそがプロの美術家が作品に込めることのできる秘密だと思うのです。ベタに全部説明することや、作品を理解可能なかたちで提示することがプロの仕事な訳ないじゃない。ディエーゴ・トヌスのこの作品も、河原温のすべての作品も、アリギエロ・ボエッティもヴィト・アコンチも小野洋子も雨宮庸介も、みんなそのようにやってきています。みんな生真面目に、間抜けに、過剰に、大袈裟に、倫理的に、秘密を物質化している。
























