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「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の余白。山本浩貴評「DISPLACEMENT|笹原晃平」展【2/2ページ】

笹原晃平の芸術実践における「余白」

 前段が長くなったが、ようやく笹原の展示に目を向けたい。「DISPLACEMENT」展は、彼がせんだいメディアテークを拠点に展開する活動の欠くべからざる一環として機能している。その活動は「社会実践ポストポン」と命名されている。「社会実践ポストポン」は貨幣を介さないオルタナティブな交換経済の実践として笹原により構想され、(作家本人の言い回しを借りれば)「永続的な貸し借り」の具現を目標にしたプロジェクトである(*2)。その具体的な方策として、笹原は主に子供たちが自分の意思でいつでも食事をとることができるような環境を整備し、それに伴う飲食店を含む地域コミュニティの活性化という相乗効果を可能にする仕組みの構築を目指す。

 このプロジェクトでは(多くの思想家をして「オルタナティブはない」と断言せしめた)資本主義経済の「余白」が探索されている。この貨幣によって媒介されない循環経済の原動力としての資金の一部は、間接的には、子供たちが使用した飲食のためのチケットの半券と飲食店が先送りして精算したチケットの半券をつなぎ合わせたものを額装した作品を売ることで得られる資金ということになる(*3)。その意味では、完全に現行の資本主義経済の外部に存しているわけではないが、少なくともその隙間にある何かへと光が投じられている。そして、その「余白」を埋めているものが原初的な意味での「信用」であるように見えることは、たいへん示唆的である(*4)。

《Coke and Beef Tongue(Postpone Deliverable Piece)》(2024)の展示風景 撮影=Gallery TURNAROUND

 先ほど「つなぎあわせて」と記述したが、当然ながら、いったん切り離された紙片を再び完璧に接合することはできない。それどころか、両者はかなり大雑把に並置されている。その中間には、縦に伸びる空隙がはっきりと刻まれている。そして、笹原の芸術実践の「肝」は──比喩的な意味でも、実際的な意味でも──この空隙にこそ存在しているように思われるのだ。

 その明示的な社会・政治的有用性ゆえ、「社会実践ポストポン」は「美術」としての批評を受けることが少ないのではないかと予想される。笹原にとって、しかしながら、その作品に現出する認知されにくい空白、埋めがたい「あわい」は視覚的・美的に重要なものである。隙間こそ、彼が都市空間や経済制度のなかに発見しようとする何かであり、それを同時に視覚的・美的に表象することにも、笹原はオブセッシブとも言えるこだわりをもっているように思われる。

  そうした点を踏まえて初めて、Gallery TURNAROUNDの展示空間では「異質」に見えるほかの2作品の意味が明白に浮かび上がる。その2作品とは、最初は2007年に制作された笹原のデビュー作とも言える《Home and Away》、そして2021年以降に彼が様々な場所で発表している《対縁》(2021年は《未題》というタイトルで発表)である。

展示風景より、中央は《対縁》(2021/2024再制作) 撮影=小岩勉

 《対縁》では、展覧会場周辺をぐるりと一回りした長いロープの両端が「つながらない」状態で額縁の中央に収まっている。鑑賞者の注目が向かいがちなのはギャラリーを取り囲むロープのギミックだが、実際に同作の核となっているのは、接触しそうでいて決してくっつくことのないロープの両端の間にある空隙であろう。

《Home and Away》(2007/2024再制作)の展示風景 撮影=小岩勉

 《Home and Away》は、高度にコンセプチュアルな作品だ。ギャラリーのカフェ部分を展示空間に「移転」し、再現する。多くの人は「作品」であることも気づかないであろう《Home and Away》だが、その繊細な場所(place)の芸術的交換においても余白が作品になり、反対に作品のほうが余白になるという転倒が生じて(take place)いる。そして、その転倒の瞬間は何度も際限なく反復され(鑑賞者は、どちらかの空間が作品で、もういっぽうの空間が「余白」であると認識した瞬間、次はその余白こそが「作品」であることに気づくからだ)、その繰り返しが作品の「肝」をなすのだ。

 このように、笹原は一貫して無数の「余白」──経済活動の余白、芸術活動の余白、作品における空間の余白──を探求し、その隙間に飽くことなく光を当て続けてきた作家だ。目に見える(可視的な)余白も、目に見えにくい(不可視的な)余白も。触れることのできる余白も、触れることのできない観念的な余白も。そこにこそ、彼の芸術実践がたんなる社会的プロジェクトに留まらない、芸術としての独自性が横たわる。 

 概念的な余白と現実のおける余白が両義的に結びつくとき、笹原の芸術実践はソーシャリー・エンゲージド・アートとしての本当の力を発揮する。笹原は、そのさらなるポテンシャルを引き出すべく、「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の余白を見出そうと奮闘している。そう筆者には感じられた。笹原の活動が指し示す先に、ソーシャリー・エンゲージド・アートのまだ見ぬ姿(のひとつ)が照らし出されている。

*1──クレア・ビショップ「情報オーバーロード」青木識至+原田遠訳『Jodo Journal 5』浄土複合、2024、72ページ。アンダーバーは原文では傍点。
*2──ここでは詳述しないが、その革新的な仕組みについては笹原のオフィシャル・ウェブサイトなどで詳しく説明されている(とくに同ページの埋め込み動画を参照のこと)。
https://arahasas.com/postpone/(2024年10月1日閲覧)
*3──このチケットは「せんだい・アート・ノード・プロジェクト」(せんだいメディアテークが2016年から継続している地域密着型のプロジェクト。略称「アートノード」)が仙台市環境局からの依頼で始めた「ワケあり雑がみ部」(アーティストの藤浩志が監修を務めている)でつくられた「包装紙」を再・再利用したもの。「雑がみ部」では、毎年、家庭ごみに混入するリサイクル資源としての「雑がみ(紙袋、紙箱、包装紙など)」をメディアテーク内に「雑がみ収集所」を一時的に設置して収集し、家庭から持ち込まれた雑がみを用いて参加者が自由に工作している。そのため、せんだいメディアテークのアーティスティック・ディレクターを務める甲斐賢治の言葉を借りれば、このチケットには「同じものが1枚もない」ことになる。
*4──このチケットは信用取引における「貸し借りの証明書」のようなものである、と笹原は説明する。そのアイデアのモデルとなっているのは、歴史的に長らく用いられていたとされる「タリー・スティック」である。これは貸し借りにまつわる「記憶補助装置」として機能していたもので、本来1本だった木の枝を2本に割って金額や日付などを書き込み、借主と貸主がそれぞれに保持していたとされている。

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