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2022.4.7

「アートフェア」の解体と更新。黒沢聖覇評 NFTアートフェア「Meta Fair #01」

国内初のNFTアートフェアとして開催された「Meta Fair #01」。リアルとバーチャルの両空間で同時に作品が展示・販売された本フェアは、現代アートの第一線で活躍する21組のアーティストが、NFTの専門家たちと手を組み、ファインアートとしてNFTと向き合うもの。このNFTへの新しい試みについて、キュレーターの黒沢聖覇がレビューする。

黒沢聖覇=文

「Meta Fair #01」の会場風景 ©A-TOM Co., LTD.
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メタ・(アート)フェア── NFTのダブルバインド

 筆を進める前に先に言い訳がましく断ろう。NFT元年とも言われる昨年から、各種のメディア報道やアートシーンがNFTの可能性とその市場過熱について論じていたのにもかかわらず、私はNFTについて不勉強であり、ほとんどと言っていいほど知識を持っていなかった。現代美術を扱うキュレーターとして大変恥ずべきことではあるが、NFTの構造原理とその動向について、私は無関心を装っていたか、もしくはそのことに無頓着であったのだ。NFT市場の不可解な実体への自らナイーブとさえ形容できるような懸念、NFTを支えるブロックチェーン技術理解への根本的な困難があったこともあるだろう。その背景にはポスト・インターネットやデジタル・ネイティブ、Generation YやZなど、私自身を包括する世代論へと還元されていく全体論的傾向への抵抗や、徹底的に細分化されたブラックボックス化する専門性への不可知論的なスタンスがあったことも否めない。さながら現代のソーカル事件に加担し、サイエンス・ウォーズの勃発を恐れるかのように、NFTについて知ったフリをしてはならないという、不安がそこにあった。

 しかし、日程が重なるアートフェア東京から徒歩数分圏内で開催された、国内初のNFTのアートフェアとうたうこの「Meta Fair #01」はそうした不安を払拭するようにして開催されている。企画者であるインディペンデント・キュレーターの丹原健翔はステートメントにこう掲げている。

「NFTアート」の市場がファインアートのシーンと乖離してしまっている現在、NFTという技術媒体が現代アートにとってどのような意義をもつのかが問われている。世の中の“メタな世界への期待の中に芸術の価値は所在するのか。フィジカルとバーチャルの共存する近い未来、現代アートはどう立ち振る舞うべきか。
(「Meta Fair #01」公式HPより)

 このフェアは、第一にNFTへの一般理解とその芸術実践の可能性に対する門戸を広げる機会を生み出そうと素直に試みている。そして第二に市場と資本の関係、物理と仮想の二項対立をメタ的に解体し、また再構築することを狙っている。特筆すべきは、私のように、NFTの購入の仕方すら知らない来場者に対して、鑑賞から購入までの丁寧がすぎるほどのインストラクションとフォローアップが行われていることである。無論、アートフェアなのであるから、これは販売利益を生み出すための当然のアプローチである反面、販売のプロセスそのものも出展作品のコンセプトのなかにメタ的に巻きこまれたかたちで行われている。ここで、Meta Fairというシンプルなタイトルはしかし、秀逸であることに気づく。これはNFTのアートフェアであると同時に、「アートフェア」そのものについてのメタ解釈・メタ実践でもあるのだ。

花崎草 PANACEA PILL 2022 ©A-TOM Co., LTD.

 いっぽう、それでもこれはアートフェアを名乗っているのであるから、これについて私がレビューを執筆していること自体、そこに伝統的な批評的距離などはほとんどありえないことも明記しておく。近年、いままさに私が執筆しているこのようなオンライン展覧会レビューが批評的意義を失い、たんなる「広報」の一翼を担うだけになっているという状況を憂う声をよく聞く。私にここで批評の衰退などを論じる能力も気概も一切ないが、現に私はこのフェアの誘導に従順なまでに従い、人生で初めて少額ではあるがNFT作品を購入している。この点から言えば、私はすでに飼いなされたインサイダーである。つまりこのレビューは、批評というよりもただのレポートであり、すでにこのMeta Fairの「メタ広報」でしかありえない。

 わざわざこのように言い訳がましく書いているのは、こうしたメタ言語への強固なまでの自覚が、主催者、キュレーター、出展アーティスト全員を巻き込みつつ、本フェア全体を貫いているからだ。そしてこうした複数形のメタ言語の地平をとらえるフォーマットとしてのNFTの可能性が、このフェアではストイックに模索されている。

 例えば、松田将英の《The Laughing Man #Black》(2022)は、携帯で誰しもが見たことがある「泣き笑い」の絵文字(The Laughing Man)のヴァーチャルイメージをNFT化し、販売している。購入者は、同時にThe Laughing Man ClubというDAO(分散型自律組織 Decentralized Authorized Organization)と呼ばれるようなコミュニティに入会することになるが、そのコミュニティがいったいどのようなものかは明示されておらず、泣き笑いという判別しがたい表情の背後の薄気味悪さがある。また、この「#Black」シリーズについては所有者が本作を転売すると、作家のみならず初期コレクターにもロイヤリティが還元されるという、現状のNFT市場を逆手に取ったアナーキーなアプローチが取られている。

松田将英 The Laughing Man #Black 2022 ©A-TOM Co., LTD.

 あるいは、本フェアのキュレーターである丹原は、自身の心臓の表象それ自体をNFT作品として取り扱い、その取引にまつわる法的な環境構築のプロセスそのものをパフォーマティブに作品化している。この《Representation of a Heart》は、国際弁護士と医療従事者の協力によって作成され、丹原の心臓の表象とその取り扱いに関する定義を明文化した本文そのものが、NFTとして取り扱われている。医学的にも心臓そのものの定義は難しく、例えばどこからが心臓でどこから大動脈なのか、という定義はいまだに明確ではないという。自身の身体の一部である心臓を扱いつつ、NFTのラディカルな可能性を問い、またヴァーチャルに思える作品コンセプトそれ自体によって、市場取引にメタレベルで介入することで再び私たちの知る物理空間へと回帰する。本作のこのようなアプローチは、本フェアで出展されているほかの多くの作品にも共通して見出すことができるだろう。

丹原健翔 Representation of a Heart 2022 ©A-TOM Co., LTD.

 さて、このような各出展作品の解説は本家に任せたい。どういう意味かというと、このフェア中、1日に何度も開催されるキュレーター丹原自身による全作品の解説ツアーがあり、またこのツアーこそが本フェアにおいてもっとも着目するべき特徴なのだ。上記のように、ハイコンテクストかつメタ言語による応酬を展開する多くの難解な作品を、NFTを知らない一般来場者層でも理解できるように声を張って解説する丹原の態度は、カッティングエッジたる国内初のNFTフェアの企画した立場としては、あまりにも泥臭いフィジカルな基盤、個人の身体に依拠している。

 パフォーマンス・アーティストとしても活動し、自身もフェア出展作家である丹原によるこの解説は、多種多様な法的根拠や制度の「定義の再定義」を概念的に問うような作品こそ、フィジカルに根ざした翻訳を必要とすることも逆説的に強調している。心臓の「表象(representation)」を問う一見知的でクールなNFT作品を、自ら汗をかいて大声で解説する丹原のツアーは、同時に自身の心臓をかけた物理的な「上演(presentation)」でもあるのだ。こうした態度からは、「規律は疑えども、物理法則には従わざるをえない」というようなNFTに潜在するある種の諦観を感じ取ることができる。彼のツアーこそ、メタ言語が戦略的に内包されている秀逸な出展作品群それ以上に、「AであるがゆえにAでない」というような、ほとんど禅的なダブルバインドが、NFTの「メタ」の潜在可能性(と混沌)としてあることを証明している。

丹原健翔によるツアーの様子 撮影=藤元明

 Meta Fairは、市場の過熱とファインアートとの乖離が取り沙汰されるNFTがまさに、未熟ながらも資本や資産価値そのものを解体し、乗っ取り、再定義することで、芸術的・社会的可能性のるつぼとなりうることを、ずる賢さとともに証明しようという試みである。NFTを販売するアートフェアでありながら、丹原の解説や本フェアの来場者同士のコミュニケーションは、メタ化されず、身体的な連帯や結束による熱気を生み出している。この「NFTを通したNFTらしさのパフォーマティブな否定」をもってして初めてこの企画は、NFTのアートフェアの「メタ・フェア」として成立するのかもしれない。本フェアで私は初めてNFT作品の購入を決め、ビットコインがどうのこうの、という煩雑なプロセスを覚悟した。しかしなんと支払いは現金で良いという。来場者への敷居を下げようとした結果ではあるだろうが、本フェアを貫くこうしたどこか転倒・倒錯した形式こそ、大きな資本をもって間近で開催される国内最大級の「アートフェア東京」を横目に、「メタ・(アート)フェア」として、資本と芸術のなかからそのどちらをも解体し更新しようとするダーク・ユーモラスな挑戦に見えたのであった。

 余談ではあるが、このフェアの趣旨に則れば、この「メタ広報」としての本レビューもまたNFT化し、フェアの出品作品として販売することも、その射程として十分にあり得る話である。このような話が半ば冗談のようで冗談でなく、まさに松田作品が示すような「泣き笑い」的批評のあり方も、2020年代においてこれから具体的に検討されていくべきなのかもしれない。