越境と影像
映像という言葉はしばしば、影像という字があてられてきた。映像はデジタル化に伴い、データ化された色彩情報がプロジェクターを通して、投射されるようになった。しかし映写機においては、ハロゲンランプの光がフィルムを透過する際、光量を減衰しながらもその色彩をまといながら図像の機微を示していた。言い換えると、かつてのスクリーンに映し出されていたのは、情報としての色彩ではなく、遮られた光であり、同時に影であった。つまり、映画における暗部は、黒という色の情報ではなく、文字通りの闇である。そして、デジタル化によって映画から失われたのはまさにその闇である。20年ほど前に映画人たちからそんなことを聞かされていたことが思い出された。
展覧会タイトルのもととなったインスタレーション作品《Blessing beyond the borders》(2019)によってその記憶が呼び起こされ、今日の映像に失われてしまった映像の原初的で本質的な魅力──闇とゆらぎをまとった影像のことがふと浮かんだ。同作は、スクリプカリウにとっての二つの故郷、ルーマニアと日本の祭りや儀礼、風習がプリントされたオーガンジーが螺旋状に配置され、中心に置かれたライトによって照らし出される。そしてその図像の影は、重なり合いながら壁面に映し出され、鑑賞者がそのなかを歩く際に生じる風圧がオーガンジーをわずかに揺らし、影はゆらぎをまとうのである。17世紀のイエズス会司祭、アタナシウス・キルヒャーの著書『光と影の大いなる術』(第2版、1671)のなかで、その原理が解説されたマジックランタンというプロジェクターの原型となった装置や、インドネシアのジャワ島で継承される影絵芝居ワヤンにおいても、その発光源となる炎のゆらめきが神秘性をもたらした。そのとき影像は、イコノグラフによってのみによって語られるのではなく、現象的なゆらぎが暗部への想像力を喚起することによって成立してきたのである。そしてその想像力は、光と影の狭間をたどって図像の外や内部に秘匿された何かへと向かい、見えないものを見たいと思う欲望をわずかに刺激する。
影像における闇、フレームの外側にあるもの、秘匿された何か、これらに対する話は一見なんの脈略もなく思えるかもしれないが、そこに共通する見えないものへの想像力という点は、落合の作品を考察する際の重要な手がかりと言える。仮にひとつの好例として、2015年から制作された連作「明滅する輪郭」(本展出品外)を挙げてみる。このシリーズでは、日本とルーマニアで採集された古写真に写る人々の顔が、作家によってビニールが被され、固定されている。写真というスタティックなメディアを使いながらもビニールの膨らみに含まれた空気が人々の呼吸を想起させ、また、覆い隠された顔へと思考を誘うのである。そのビニールの奥にある表情や、その場面に至るまでの背景、人種、年齢など、隠されていなければ測り知ることのできた事柄へと意識が向けられることとなる。
こうした視点を持って本展を振り返ると、《骨を、うめる-one's final home》もまた、わずかにしか語られない物語の真相へと気持ちを導いていく。風に揺れるドレープのかかったカーテン。そこに映し出されるベトナムの海に寄せる波。垂直と水平の揺らぎが交差する映像は、日本の方角を向いたベトナムに残る江戸時代の日本人商人の墓からの眺めだという。そして、その背景については多くは語られていない。そのわずかなエピソードが、372年前にこの地にいた日本人の人生へと目を向けさせる。その情報量は決して意図されたものではなく、現在からリサーチできる限りを尽くしても、潤沢な情報が得られなかった。そうしたことが真相であったとしても、故郷から隔たれた地で生涯を終えた人間の望郷の念は想像に難くなく、また、心情を揺り動かされる。
そしてまた、世界各地を旅しながら撮影された《The backside over there》もまた、シンプルに、しかし、強度のある方法によって、見るものの想像力を促す。写真には、壁のようにそり立つ海とその前に佇む人物が写る。海は時に人の心情を鏡のように映し出すことは、多くの人にとって経験されてきたことであるから、写真に写る海を眺める人々の思索にも自ずと引き寄せられる。だが、それと同時に、国や大陸を隔てる海を巨大な壁のように見立てながらも、他方で隔たれたもの同士をつなぐ回路として、海を表現した落合自身の心情にも思考がよぎる。その海に込められた二重性のなかには、自身に内在する二つのアイデンティティから、越境によって生まれた自身への問いがあったのではなかろうか。制度上の国という問題と、地理的な意味での隔たりを乗り越えた先から生まれてきた自身のルーツ。そこに対して時間の限り行われてきたであろう無数の思索、それもまた我々鑑賞者からは見えないものである。