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東武スカイツリーライン・東向島駅に隣接する東武博物館で写真展が開催された。「会社に運動会があった頃〜一企業が捉えた昭和30年代の街・ひと・くらし」と題された展覧会は、博物館再奥のスロープの壁面でこじんまりと催されていた。
本展で紹介されたのは、東武鉄道社内報のために撮影された写真である。社内報は1951(昭和26)年に創刊され、「会社の経営等に関する情報の共有や業務知識の向上」を主たる目的としつつ「従業員同士の親睦を図るツールとしての役割」も担ったという(*1)。本展は博物館がアーカイヴした社内報用の写真のなかから、1950年代半ば〜60年代半ば(昭和30年代)に撮影された写真およそ60枚を選び、「日常の風景」「休日・祭り・ハレの日の風景」「沿線の風景」の3パートに分けて紹介している。
例外的な数点を除き、展示写真には撮影者の名前が付されていない。それらは作品ではない。また何事かのドキュメントではあるが、いわゆる大文字の歴史に奉仕するものでもない。それらは写真史の力学が排除したもの、固有の価値を尊ばれることのない“普通の”写真である。そのような写真を、本展は「昭和30年代の東武線沿線」という時空間に置き直す。その長大な時空間をひとつのまとまりを持った「風景」とするならば、会場に並ぶ写真は「点景」である。
本展に展示された写真には、ほぼすべてに150字程度のキャプションが添えられていた。書かれている内容は、大きく3つに分けられる。1つは、写真に写っているモノやコトにまつわる客観的な記述。2つ目は、その写真が社内報に掲載された際に添えられた説明書きの抜粋。3つ目は、その写真と同時代に起こった出来事の例示である(「〇〇が発売されたのは昭和36年のことである」「××が一般家庭に普及するのは昭和39年以降のことである」など)。「よくわからない昔の写真」を前にした鑑賞者に対して、キャプションはまずイメージの各部を名指すことを促し、イメージに対する昭和30年代当時の解釈を参照させ、イメージにまつわるもうひとつのレファレンスを提供する。情報・知識を重層化させながら1枚のイメージを理解する過程を、親切かつ丁寧に促すようなキャプションの設計である。
展示された写真は多岐にわたる。サブタイトルにもある運動会の写真をはじめ、東武鉄道の福利厚生施設である社宅や社員用歯科診療所のようす、通勤ラッシュで混み合う駅のホーム、団地が立ち並ぶ沿線ニュータウンの風景などが、長いスロープ状のギャラリーの壁を埋めていた。鑑賞の経過とともに少しずつ東武線沿線という空間が理解されていく。線路の延長を俯瞰した無味乾燥な平面図が、生きられた場として立ち上がってくる体験である。
しかし、一枚一枚の写真に内在する“視点”は、生活者の視点とはおよそかけ離れたものである。撮影者の身体は、例えば運動会においては競技者のあいだにあり、駅構内においては雑踏を見下ろす位置にある。日常生活を撮っているとはいえ、それらは“特別な視点”から撮られている。ある空間に織り込まれた人間の痕跡を顕示する視点によって、生きられた場は可視化される。鑑賞者は複数の撮影者の視点を借り続けながら、線路沿いの風景を自らの手で構築していく。
本展の鑑賞は、ひとえに「昭和30年代の東武線沿線」という茫漠とした時空間の細部をコツコツとつくり込んでいく作業に似ていた。写真のディスクリプション、社内報掲載時における写真の付帯情報、独立した資料からの参考情報がバランスよく配分された150字程度のキャプションが、写真一枚一枚の「細部」をつくり、また60枚の写真が「細部」となって「昭和30年代の東武線沿線」が立ち現れる。
「昭和30年代の東武線沿線」の、ある時ある場所に一枚一枚の写真を布置しながら、茫漠とした時空間をある種の風景へとつくり変えていく。シンプルな作業の繰り返し、反復運動としての鑑賞のなかに、展覧会が原初的に持っていたであろう楽しみを覚えた。わかっていく過程、教育装置としての展覧会。それこそ線路に沿うように、リニアに、ただ前進していく鑑賞。明示されたゴール=展覧会タイトルに向かって、収斂されていく情報。不安がない。無責任な「自由の勧め」もない。オープンエンドではありえない。しっかりと偏ること。はっきりと言い切ること。展覧会という形式を選ぶならば、もう一度勘定に入れられていい、ひとつのかたちを本展は示していた。