命脈・社会・政治としての布と近代青森:11時間17分35秒の鑑賞体験
「人は産声を上げるときから死ぬまで、布につつまれています。それは物理的にも精神的にも私たちを守るものであり、何者かを示すものでもあります」(*1)。本展はこの一節から始まる。いのち、すなわち息のある時間、生活のいくつかの層は、布によって可能になる。私たちは布をつくるが、ある意味では、布につくられている。そのことに気づくには、いくつかの「裂け目」を覗かなくてはいけない。
ACACは、企画展に招聘したアーティストが滞在制作できる環境を整えている。居住・制作スペースや予算、地域資源へのアクセシビリティが担保されたなか、出品した3人の作家はACACを拠点に青森県内のリサーチを行った。今回はいずれも、青森市歴史民俗展示館(稽古館)旧蔵の資料に取材した作品、あるいは資料を使用したインスタレーションを発表している。
林介文(リン・ジェーウェン/ラバイ・イヨン)は、台湾と日本で収集された古布を使った《解縄(ときなわ/Open the Rope)》(2020)で、両国にルーツを持つ自らのアイデンティティについて考察する。吊られた時計付きの姿見鏡に巻き付くように、古布で編んだロープがぶら下がっている。太いロープは途中からほぐれている。作品の構成要素はそれぞれ過去、自分、血脈のメタファーといったところだろうか。であればロープの解かれは、ルーツへと遡行する作家の行為を意味するのだろう。ロープが解かれて古布が現れるように、「私は何者なのか」という問いは私ならざるものを次々と発見していく。私たちが「結びつき」それ自体であるゆえに、虚しさと安堵は同時に去来する。独立自尊を信じながら、なおも私たちは何かに編成されることなしには存在しえない。
碓井ゆいは、青森滞在中のリサーチで見つけた戦前日本の「女子用教科書」から着想したインスタレーション《景色をならう》(2020)を展示する。碓井は戦前の「女子教育」を基点に、青森のこぎん刺しと欧米社会で普及したクロスステッチを対比的に構成していく。そしてここに、弘前の東奥義塾における近代教育のありようを経糸として引き、土着的に培われた「知」の整形と序列化の過程を示そうとする。同時にそれは、刺繍技術と一体化した「女子」という概念が錬成整序されていくプロセスでもあった。あらゆる教育には「目的」が存在する。近代青森において、こぎん刺しは女子教育の手段となり、個人は「女子」として社会化された。「では、私は誰のどのような“目的”を内面化している/きたのか」。私たちは青森の近代史を通じて、そのように省察することもできる。
遠藤薫は、滞在期間で制作した《閃光と落下傘》(2020)を発表した。津軽地方でも盛んに用いられた裂織でつくられたパラシュートが、川面から上がる花火(=閃光)の形状を模して展示されている。パラシュートと雷薬。それらは時に「救命具と花火」として生を鼓舞し、時に「作戦要具と爆弾」として生を暴圧する。「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりをつくっていたら きっと戦争なんか起きなかったんだな」(*2)。遠藤は、かつて青森にも滞在した山下清のこの言葉を引いて作品と並置している。「一つの技術をめぐる複数の解釈」が本作の主題である。ドーナツ状の大きな布の内に、私たちはパラシュートと雷薬を見出し、さらにそれらの両義性を発見する。物理的に引き裂かれた布を、意味の次元においても引き裂きながら、私たちは裂け目の先を想像していく。
私たちは布のなかに、命脈を見ることも、社会を編み成していくプロセスをみることも、広義の政治を見ることもできる。青森の伝統技術や民俗資料という経糸をアーティストの営みという緯糸を以って編み直し、現代との切実な関係性のなかで近代をあらためて問題化したという点において、本展は意義深いものであったと言える。
最後に付言することがひとつある。筆者は、国際芸術センター青森(ACAC)がインターネット上で公式に発表した情報(*3)のみに基づいて、このレビューを執筆している。緊急事態下における要請に従って訪館はしなかった(*4)。にもかかわらず本稿を執筆した理由は、ACACが本展の延期に際して通常の開館とは別のかたちで展覧会を「ひらく」ことを試作し、ウェブコンテンツを充実させたことに応答する必要を感じたからである。「観せられない展覧会を観せる」という試みを、「観られない立場から観る」ことで考えたかった。
今回、展示室の設えや作品のディティール、制作のプロセスやコンセプトなどは、配信された動画によって知ることができた。展覧会の空間的特徴(導線設計や展示物の距離感、大きさなど)はやはり把握しにくく、複数のものを同時に感知している実感も希薄になる。展示室内において注意散漫であること、複数のものが同時に見えてしまうこと、見飛ばしたりしながら情報の粗密をコントロールすること等も、ヴァーチャルな鑑賞においては難しい振る舞いである。(動画にせよ、3Dウォークスルーにせよ)ブラウザ=視野に入るのは見るべき画/見ようとした画だけになってしまうため、ノイズがない(取るべき情報はあらかじめ決められている)。翻って鑑賞とは「見えているもの」のなかから、多くの情報を切り捨てることによって成立する行為なのだろう。その意味で、ブラウザ越しの鑑賞は「見えているもの」が少なすぎるがゆえに、この能動的な捨象ができなかった。
開くことを制限された展覧会は、従来の展覧会や鑑賞のあり方を相対化する。今後も試みられるであろう新しい鑑賞から気がつくことは、決して少なくないように思われる。
*1── 「展覧会概要」http://www.acac-aomori.jp/air/2020-1/ より
*2── 映画『この空の花 長岡花火物語』(監督=大林宣彦)ポスターより
*3──具体的には、公式ウェブサイトのステイトメントと6本の動画、およびトークイベントで使用されたレジュメである。
・各動画へのリンク https://www.youtube.com/channel/UCbPbeWf4SREK5EZ5k6N93OQ
・トークイベント動画
https://www.youtube.com/watch?v=LQg4xhC9m_g
・6月1日トークイベントのレジュメ http://www.acac-aomori.jp/wp/wp-content/uploads/2020/03/0601-endo_okuwaki-talk-guide.pdf
*4──この展覧会は本来2020年4月11日に開幕する予定だったが、同月7日に発出された緊急事態宣言を受けて、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から開幕を延期した(実際の開幕は5月7日から)。本稿執筆中は感染症対策を実施しながら開館しており、公式ウェブサイトでマスク着用、ソーシャルディスタンシング、消毒液の使用、県境をまたいだ移動を極力控えることなどが奨励されていた。