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2021.3.9

終わりなき店開き。小田原のどか評 カタルシスの岸辺「光光DEPO」

2017年の結成以来、若手美術家たちによる実験的な活動を展開してきたコレクティブ「カタルシスの岸辺」。「マテリアルショップ」を自称する彼らが昨年、東京・神宮前のEUKARYOTEで行った実店舗プロジェクト「光光DEPO」から見えたその本質とは何か? 小田原のどかがレビューする。

文=小田原のどか

「光光DEPO」より
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「マテリアル・マテリアリズム・マテリアリスト」

 カタルシスの岸辺の個展「光光DEPO(キラキラデポ)」は「ワールズベストマテリアルプロショップ」と銘打たれていた。会場図には「キラキラデポ EUKARYOTE店 フロアマップ」とあり、会場1階は「マテリアルショップ/総合レジ」、2階は「アート&リメイクブース(加工室)」、3階は「動牙番長/プロモーションブース」、そして屋上は「多目的スペース」とされている。展覧会がホームセンターあるいはホビーショップに擬態したようなつくりになっているわけだ。

 「カタルシスの岸辺」は2017年に結成されたアーティストコレクティブである。荒渡厳と海野林太郎を中心に結成され、プロジェクトに応じて参加アーティストが入れ替わるかたちで活動が続いている。最大の特色は「マテリアルショップ」を自称していることだろう。「ショップ」であること。それがカタルシスの岸辺が展開するプロジェクトすべてに共通する「核」である。

 「マーケット」でも「ストア」でもなく「ショップ」。包括的なマーケットでも販売だけを行うストアでもなく、加工および修理を行う小売店を指すショップであることで、カタルシスの岸辺は「制作」と「労働」そして「生活」の関係を問い直すことを試みてきた。そのような形式は本展においても踏襲されている。

 同展/店では、荒渡巌、海野林太郎、高見澤俊介、田中勘太郎、大山日歩のコアメンバー5人に加えて、ナルコ、小宮麻吏奈、長田雛子が加わった。筆者がもっとも関心を寄せたのが、今回ナルコ、小宮、長田が加わったことである。金沢美術工芸大学出身の大山がいるものの、東京藝術大学出身の男性作家を中心に活動を継続してきたカタルシスの岸辺が、同質性の打破を指向しているのだと受け取ったからだ。今回8人の作家たちは日替わりで「店員」として在廊し、2階の「アート&リメイクブース(加工室)」で「素材の加工」を担当した。

 会場1階には購入可能な様々な「マテリアル」の陳列とともに、本店/本展における解説を兼ねた映像が展示された。会場のBGMも特徴的だ。ホームセンターに足を運んだことがある者にとって耳馴染みの良い音楽もまた、「擬態」の一演出として活用されている。そして会場には「光光DEPO(キラキラデポ)の楽しみ方」と書かれた説明書きが掲示されていた。以下のような内容だ。

  1. 入り口付近に置いてあるカゴをもつ
  2. 好きな素材を選び、加工内容を考えよう。加工依頼書と選んだ素材をもって1階レジで合計!
  3. 2階の加工室へ依頼する! 待ち時間が記載された「お客様控」をなくさないように!
  4. 「お客様控」に記載された時間になったら作品と証明書を受け取りおうちに持って帰ろう!
加工受付

 加工依頼書は1階に用意されており、マテリアルを購入後「クイックコース」「スタンダードコース」「リッチコース」の3つから好みの加工コースを選べるようになっていた。それぞれ価格とともに加工にかかる時間も異なる。最も安価なクイックコースは、加工におけるエフェクトの選択肢は「キラキラ」ひとつのみだ。スタンダードコースのエフェクトの選択肢は「キラキラ」「ふわふわ」「てらてら」の3種、さらにエモーションの選択肢として「😇」「😅」「😂」「🥺」などを選ぶことができた。リッチコースはこれらに加え任意のキーワードを指示することが可能になっている。

 私は1階でふたつのマテリアルを購入し、スタンダードコースの「ふわふわ」と「😇」を選択した。加工はその日「店員」として在廊していた長田が担当した。加工には時間がかかるため、3階もしくは屋上で時間を過ごすことになる。3階に設置された「動牙番長」とはカタルシスの岸辺が開発したコイン投入式の映像視聴筐体だ。「あらゆる映像作品を統べるべく産み落とされた鬼子」と紹介された映像視聴筐体では、20人ほどの作家による短編動画が「1PLAY 100円」で視聴できる。筆者は迷わず「たくみちゃん」の動牙を視聴した。

加工室

 加工が終わると「作品」と「作品証明書」を受領する。証明書には「この作品がカタルシスの岸辺の作品であることを証明します」と印字され、加工者のサインが記されていた。ここでカタルシスの岸辺が行ったことはなんだろうか。これまでのカタルシスの岸辺の代表的なプロジェクトは「死蔵データ」の輪廻転生とも言える「量り売り」であった。対して本展/本店は、売買に加えて実際的な加工が即時的に行われた。しかしここでの加工行為は隔離された「加工室」で行われるため、その過程をパフォーマンス的に見せることはされていない。同展/同店の最大の特徴は、交換対象であったマテリアルが、データという質量を持たない存在から多種多様で一定の量を持った「物質」へと転じたことではないか。

 そこでまた疑問が頭をもたげる。カタルシスの岸辺が掲げる「マテリアルショップ」とは何を指すのか。素材を意味するマテリアル(material)とは「母」を表すラテン語「māter」を語根とする。唯物主義(materialism)という言葉もこれに由来する。派生語としてmatterがあり、木の幹とも同義だ。materialはギリシア語 hylēに対応し、アリストテレス哲学においては形相と対置される。『形而上学』においてアリストテレスは、個物は「形相 eidos」と「質量 hylē」の二面によってできていると言った。

「光光DEPO」に並んだマテリアルの数々

 ここでの質料とは、事物を成り立たせている素材を意味する。そのような素材が「かたちづくられること」によって個物は成立し、形相として限定されることではじめて現実世界に存在できる。それがなんであるか(形相)、そしてそれが何でできているか(質量)を対照させることで、「ものが存在する」ことの実相についてアリストテレスは問うた。

 カタルシスの岸辺による「光光DEPO」を、アート市場に擬態・介入し、生産と労働を検証する試みであるという観点から論じることはもちろん可能だ。「作品証明書」とは一体何を「証明」しているのか。そのメタ的な「マテリアル×加工=作品」という方程式を、コロナ禍においていっそう停滞するアート市場への風刺、制度批判と見ることもできる。しかしそれよりも、カタルシスの岸辺が一貫して掲げ続ける「マテリアルショップ」を形而上学的制作行為として捉えてみたい。

 かたちを持たず、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できない、超自然的、理念的なもの。それが形而上である。そのような「もの」ではない「もの」を現実世界に存在させるために、マテリアリストたちが、素材の加工者が必要なのだ。カタルシスの岸辺の「カタルシス」もまたアリストテレスが主唱した用語であった。アリストテレスの『詩学』において精神の浄化を意味する語として示されたカタルシス、その岸辺、みずぎわ、「あちら」と「こちら」のほとりで、マテリアリストたちが集う。店を開き、店じまいを繰り返す。

 「マテリアルショップ カタルシスの岸辺」とは展覧会を借地した終わりのない店開きである。店を開くためには店を閉めなければならない。そのような輪廻の中で、「ものが存在すること」の実体についての問いかけそのものに「価値」を付け、それを交換し続ける機構の名前が「カタルシスの岸辺」ではないか。ところで、『形而上学』でアリストテレス持ち出した「形相 eidos」とは「見る idein」という動詞に対応する「姿」や「かたち」を意味するギリシア語である。光がなければ見ることすらできない。「光光DEPO」とは何よりも、そのような発現を意味する名付けであった。