偶然であったか「生命」をタイトルに含む展覧会がコロナ下で多く開催された。本展は、その中でも出色のひとつであったといえる。理由は建築の生命(その内部を構成するすべてがもつ物的要素を含め)と作品、観客の生命活動をチューニングした空間構成にある。その空間にあったのは、主観的な「生の実感」やビートのような「生命の躍動」ではなく、空間と作品、観客のあいだに生じていた共鳴、共感であった。
ここ数年続けている一連のエコロジーと芸術についての調査において、筆者は装飾の問題にいきあたっていた。本展を見たとき、生態学的なレベルで、作品をとりまくもの、としての館内の装飾と物質的要素が作品と共振していることにもっとも心惹かれた。壁も調度品もすべてひとつの時代の意匠で埋めつくされた空間で、現代アートの展示を行うことの困難と新たな可能性については、語るまでもない。ホワイトキューブを前提とした作品の自立性とは無関係に、ある「キャラクターをもった」場における「振る舞い方」によって、本展の作品は選ばれている。
生命は繁殖する、寄生したり進化したりハイブリッドに遺伝子組み替えや矯正を行う。ある場所に置かれることで、作品がどう振る舞い始めるか、作家の意図など無関係に、そこから勝手に意味が発生し、花粉の飛散のようにそこらにこぼれ落ちていく。その振る舞いは周囲の物質的存在との関係で決定づけられる。本展キュレーター、浜崎加織の「生命」への解釈は多岐にわたり、それぞれの解釈に該当する作家たちが組み込まれている。が、本評では、周辺のものと際立った(物質的)化学反応を起こしていた作品たち、加藤泉、康夏奈、小林正人、佐々木愛の4人の作品を取り上げることとする。
「生命」は一過性のものであり、きわめて具体的なものだ。例えば「場所の記憶の遺伝子」は大食堂で催された宮家の晩餐の光景写真にではなく、物化された情報、グリルカバーの魚の模様やルネ・ラリックのデザインによる照明器具のパイナップルとざくろのモティーフにあるのである。花や魚などの動植物は、生のはかなさを留(とど)めんがために多くのデザインのモティーフとなってきた。有機的な線を含む生物のかたち(模様)を、大量生産型の近代産業の中に組みこむことに成功したアールデコ。「生命」の熱を適度な温度に冷やし、ガラス、金属、石、コンクリなど他の素材に注入した意匠によってできた、アールデコ建築の旧朝香邸空間は、それを再びヒートアップして、活性化してくれるバイブを待ち受けていた。
1「驚き」
私たちはグローバル化された情報網の中にあって、たいていのフィクショナルな、奇想天外な光景には慣れっこになっている。そこで私たちのシナプシスがなおも「驚き」を伴って直結できるものは、例えば今目の前で起こってしまっていること、体験してしまったことだ。
展覧会入り口、左側の部屋のガラス越しに加藤の大型作品が見える。大きな「島」になった人物像に、生息する生き物としての小動物のフィギュアが配置されている様子はひとつの生態系をみるようだ。グロテスクな子供、プリミティブな部族のトーテム特有の強烈な象徴性をもった加藤のfigureが(キャラクターというよりfigureであろう)そこに立っているのだが、figure自身がひとつのテライン (terrain、地形、地勢)となっている。これを見るときの「驚き」はそのイメージによるのでなく、そこに出現したテラインそのものによる。美術館空間の一角にそのような地勢が生まれてしまっていることに。
一般に装飾美学は「安らぎ」を基本としている。大食堂の壁面の花びらレリーフは、有機的な形態を節度ある統一的秩序に保ったレオン・ブランショのデザインによるものである。そこには生命のリズムといったものが淡々と流れており、そこに加藤の衝撃的な撹乱のfigureが破調を起こすバイブレーターのように置かれている。大きな飛行物体となった人体に、空母よろしくしがみつくプラモデルの飛行機は、背後に広がる窓の風景を押し広げ、人体彫刻にまとわりつくソフトビニールや寄生植物的オブジェは、留まるところのない想像力の木となり、壁の装飾の森の金属やミラーの反射を受けて輝きを増す。マントルピースの上のふたつの人物の肖像は品のよい東屋のトロンプルイユの壁画に、いきなり数万ボルトの電流を流し込んだようだ。E.H.ゴンブリッジは、装飾の原理を異文化から学び、「生来の本能」への帰還を主張した、建築家で装飾デザイナーであったオーウェン・ジョーンズのテキストを引用して、装飾の本質について述べている。「未開部族の装飾は本能に導かれるままであり、目的に忠実である。一方文明人の装飾の多くはかたちから受ける最初の衝動が反復されて絶えず弱められ、装飾が乱用されている」(*1)。ジョーンズは、とくに象徴性の強いエジプトの装飾方式については、「強力な秩序の感覚に伴う非常に魅力的な象徴のいつくしみ」があると述べる。彼の言葉は、象徴的に反復されるプリミティブな加藤のfigureが、かたちから受ける原初的な衝動を維持しつつ、それが象徴の「いつくしみ」となっていること、それゆえに周囲の装飾と共鳴しつつ、互いを増強していることを裏付ける。
2「遊び」
グローバル情報社会においては、私たちが外界を「体験」する方法、知覚の回路が認識や身体に直結されるまでの道順がかつてとは異なっている。例えばVRで見える光景によって私たちは自分の位置を身体的理解の中に落とし込む。例えば康の作品は自分が自然の中を歩いた体験を個別に切り取り、プレイヤーとして追体験できるように組まれている。ゲームやVRの視点がそうだが、移動とともに周囲の見え方が異なってくる過程が、風景のかたちによって自分の位置が逆に決定される感覚になるのだ。康の作品においては、風景のかたちが私たちの視点と身体の場所を決定する。自分の身体が動かされていく遊びの感覚。
別の遊びの精神は《SHAKKI - black and white on the lake》(2013)において発揮されている。雪におおわれた地面を市松模様になるように四角くショベルで除雪していくパフォーマンス(映像)は自然の中に装飾的なパターンを出現させる。黒白の市松模様はE・H・ゴンブリッジによれば、読み取りがもっとも不安定なデザインである。予想されたものが実現されれば、予想と知覚を区別する必要がもはやなくなる。読み取りができず、それが実現されない場合は知覚はすぐ消されてしまう、つまり幻が見えてくるのである。(*2)ビデオモニターは、市松模様の床に置かれており、観客は作家のつくった地面(テライン)の延長上に立つもっともシンプルな「遊び」の行為に、そうやって参加するのである。市松模様──チェッカー模様はゲーム盤の模様でもある。
3「とりまくものとの一体化」
キャンバスの木枠からはみ出して、絵画を再度別のかたちに受肉させる小林の作品は、旧朝香邸の個性的な空間、北側ベランダや2階広間、姫宮居間において、とりまく空間と、静かな歓喜とともに共振していた。とくに《この星へ(ペア)》(2009)は枠から30度上にひっぱられて上昇していく画布のテンションと金色の筆のストロークによって、現実の場で生き物として絵画が存在することを示していた。そこでは「画が画であるまま周囲の環境に晒され」(小林)ていた。小林は、画が床置きになったときの画の周りの空間が一気に拡張した様子を「壁に、床に、天井に、光を受けた画がパアーッって開いた」(*3)と語っている。その「開かれ」は、本展のホワイトキューブの新ギャラリーに置かれた彼の絵の求心性と対照的であった。
経年変化しない新しい左官の素材を用いたという佐々木のレリーフは、周囲の庭園の植物を調査しこれを抽象化したうえで、つつましい秩序の中に精妙に配置した。その繊細さと実際の植物に対する正確な観察と簡素化の過程が、レリーフの縁をたどる観客の視点に浸透するように伝わってくる。《鳥たちが見た夢》(2020)では寝室の壁に垂直に、その前の部屋では《鏡のなかの庭園》(2020)は水平に置かれていた。私たちの身体に近い感覚で呼吸する、漆喰の生の気配を感じ取るには後者のほうが効果的だったといえよう。空間の光はすべてこのレリーフの呼吸を感じ取るために捧げられていた。
作品はこの旧朝香邸の空間で、それぞれの振る舞いかたで、生命のレゾナンスを観客と共有していた。これらの振る舞いの手ほどき、配置をオーケストレーションしたキュレーターのキュラトリアルナラティブを高く評価したい。
*1──ゴンブリッジは1858年にオーウェン・ジョーンズ(Owen Jones)が書いた「装飾の文法The Grammar of Ornament」を引用、知覚の心理学を応用し、文化の壁を超えて装飾を比較分析し、普遍的で本質的なものに導こうとした彼の方法を評価している。E.H.ゴンブリッジ『装飾芸術論』(Gombrich, Ernst Hans. The sense of order : a study in the psychology of decorative art. Cornell University Press, 1984)白石和也訳、岩崎美術社、1989、p.249-250p.114-116
*2──E.H.ゴンブリッジ『装飾芸術論』(Gombrich, Ernst Hans. The sense of order : a study in the psychology of decorative art. Cornell University Press, 1984)白石和也訳、岩崎美術社、1989、p.249-250
*3──小林正人『この星の絵の具[中]ダーフハース通り52』アートダイバー、2020、p.341