爆心地公園でゆれるものとは
8月9日、長崎。夜、雨上がりの爆心地公園には無数のキャンドルの灯がゆらめいていた。アーティスト・竹田信平のディレクションによる「メモ
そびえ立つ原子爆弾落下中心地碑が見下ろす一角で、面積にして約80平米に及ぶ被爆者の声紋が爆心地の地表を覆った。竹田の手で書き写されたこれらの声紋は、彼が北米・南米在住の被爆者を訪ね集めた体験談のうち、12人の長崎出身者による音声をコンピュータ処理によって可視化したものだ。当然ながら、描かれた声紋から遡及的に体験談の内容にたどりつくことはできない。それらはあくまで、きわめて個別具体的な体験を語る被爆者の、声と感情における振幅の痕跡である。
今回のプロジェクトでは、デュッセルドルフ工科大学と共同開発したARアプリが、声紋の連なりを補完する、あるいはその性質を強調する役割を果たしている。スマートフォンにインストールした指定のアプリで、声紋に覆いつくされた地面のところどころに配置されたマーカーをスキャンすることで、拡張した現実世界に旗のようなモチーフが立ち現れ、声紋の源である被爆者の声を聴くことができる(*2)。
鑑賞する私たちは文字通り、身体的に作品の内部に入り込み、声紋の上をさまよいながら、被爆者の実際の声を聴く。両者が爆心地の地平で混じり合うとき、足元の声紋、あるいはその下層としての爆心地から、被爆者の声が響いてくるような感覚を抱かせる。
しかし、この白い声紋があくまでも竹田の「手」によって書き写されたものであることには留意しなければならない。このある意味で時代錯誤的な、アナログな手つきを、竹田はこれまでの作品でも執拗に繰り返してきた。そもそも声紋をモチーフとしたインスタレーション「α崩壊」シリーズを端緒とする竹田の一連の制作は、被爆体験への本質的な接近不可能性を理解したうえで「あえて、どうにか分かろうとする、ふれようとする」(*3)態度から始まっている。
竹田が炎天下のなか、膨大な時間をかけて愚直なほど真摯に声紋を書き写し続けるとき、声紋が持つ振幅は壮絶な経験を語る被爆者の感情のゆれであると同時に、それはとりもなおさず竹田自身のその瞬間における心身の「ゆれ」を吐露するものでもあるのだ(*4)。この儀式的とも言える作業によって竹田は被爆者たちを理解しようともがき、同時に原爆の記憶を現在の自分自身の、「個」の問題として身体化する。竹田は声紋を用いた作品制作と並行して、収集した被爆体験談をアーカイブする活動を続けてきた。表現と保存、一見異なるふたつのアプローチは、竹田の立ち位置を規定する両輪である(*5)。竹田は一本の線としての時間軸のなかで、他ならぬ自身の「個」の問題として1945年―現在―未来とつながる糸を日々紡ぎ続けている(*6)。
当初「声紋源場」は、8月9日を待たず、竹田と有志の手によって消去される予定だった。「ナガサキ」を含むあらゆる災厄の記憶が、時間の経過とともに風化してゆくことを暗示するかのごとく。ところが、市民の希望もあって、8月9日まで公開は延長、さらに最終日の夜にパフォーマンスが実施される運びとなった。本来の竹田の意図には反するかもしれないが、結果的にこのパフォーマンスは、約1ヶ月に及ぶプロジェクトを締めくくるものとして奏功した。
当日夜、朗読者たちの身体そのものをデバイスとして、長崎と被爆者の物語が爆心地に召喚された。ドラムの音色は、彼らの声と共鳴し、呼び声のように響きわたる。パフォーマンスの最後には、彼らは輪になり、全員が同時に朗読を行った。それぞれの声は交じりあい、音の波は海となって広がる。もはや振動のうねりとなった音の海にからだを浸したとき、被爆者たちの、竹田の、朗読者の「ゆれ」に引き寄せられるように、私のからだもたしかに共振した。
竹田が自らの身体を媒体として被爆者の声のかたちを書き写すのと同じように、パフォーマンスにおいて「永遠の会」メンバーが被爆者の体験談を朗読するとき、彼らは被爆者の声=振動する音を文字通りその身体を震わせながら伝える媒体となる。朗読者のかたわらにいる竹田は、小型のプロジェクターから彼ら自身の声紋を、彼らの足元から心臓に向かって投影する。まるで爆心地の地層から召喚される被爆者たちの声が、その大地に接する足元から彼らの身体へとダウンロードされ、彼らの喉を通して長崎の空気へと解放されてゆくかのように。
戦後75年を迎えた。時間の流れのなかで、多くの被爆者がすでにこの世を去りつつある。こうした状況のなかで声高に叫ばれるのは、風化への抵抗としての「継承」である。それが重要であることに疑いの余地はない。だが、「継承」とは一体何を指すのだろうか? 私たちが引き継ぎ、次の世代へ受け渡すべきものとは? 少なくとも、正典化された物語を受け取り手渡すことだけが、あるいは不可侵領域となった聖地に聳立する「モニュメント」のかたちをとどめることだけが、「継承」ではないだろう(*7)。知識として整理された事実がときに、脳をするり、と通り過ぎてしまう経験を持つのは、きっと私だけではないはずだ。いやそもそも「継承」は可能なのか? 終わらない問いのなか、竹田が引き起こした「ゆれ」は波となり、ほかでもない私たち自身に向かってすでに打ち寄せている。
*1──主催は「ヒバクシャ国際署名」をすすめる長崎県民の会。本パフォーマンスは「被爆75年長崎・祈りと誓いの夕べ」の一環として実施された。
*2──「ground-0」と名付けられたアプリケーションを使用する。マーカーをスキャンして立ち現れる旗のようなモチーフは、竹田が付したタイトルと被爆後の長崎の写真によって構成される。
*3──「対談:竹田信平×岡村幸宣」『竹田信平 アンチモニュメント』展図録、長崎県美術館、2015年。
*4-竹田の書き写す「声紋」については以下のものも参照。 今福龍太「原爆の第二の目撃のために」、野中明「アンチモニュメント——「二つの時」を忘れないために」『竹田信平 アンチモニュメント』展図録、長崎県美術館、2015年。
*5──今回のプロジェクト「声紋源場」では、サイドイベントとして「声紋源場webダイアログ」が実施された。これは、竹田が設定した原爆にまつわるテーマについて各回竹田に2人のゲストを加えた3人がweb上で対談するもので、全4回の対談のテーマは以下の通りである:「#1 継承(ゲスト:朝長万左男・大瀬良亮)」「#2 公と個の物語(青来有一・中尾麻伊香)」「#3 軍縮(吉田文彦・荊尾遥)」「#4 原爆とアート(長谷川新・野中明)」。このサイドイベントの実施は、今回のプロジェクトを一過性のものとして固着/忘却させずに、次の展開へとひらいてゆこうとする竹田の態度を表明している。
*6──竹田は、「α崩壊」に続くインスタレーションのシリーズとして、無数の糸を用いた「β崩壊」を発表している。
*7──私たちはときに、モニュメントにすべてを託し、現在の地点からとらえなおすことを放棄してしまう。言い換えれば、モニュメントが象徴する固定化されたイメージを反復することで、その出来事とのあいだに距離をおいてしまう。竹田は2015年に、「アンチモニュメント・マニフェスト」を表明した。(『竹田信平 アンチモニュメント』展図録、長崎県美術館、2015年)