証言の部屋
「リバティおおさか」という愛称で親しまれる大阪人権博物館は、1985年に大阪人権歴史資料館として開館した。国内外における人権問題を総合的に取り上げてきた博物館法にもとづく登録博物館である。被差別部落問題だけでなく、在日コリアン、ウチナーンチュ、アイヌ、公害被害者、ハンセン病患者、薬害被害者のほか、LGBTQやいじめ問題などを紹介してきた。その開館から35年の節目の展覧会として、そして現施設での最後の展覧会として、「35年展」という非常にシンプルなタイトルで、大阪人権博物館のこれまでの活動を紹介する企画展が開催された。
特別展示室のガラスケースには、1985年の開館時の様子や、節目を祝ってきた写真や資料、この35年間に実施された企画展のポスター、リーフレット、刊行されたカタログなどが陳列されている。大阪人権博物館としての活動の厚みと一貫性がまずは資料によって示される。現在までの活動のパネル展示が終わると、続いて洛中洛外図屏風、大坂町絵図といった近世から近代までの資料、楊洲周延《帝国議会貴族院之図》(1890)や歌川国利《憲法発布式之図》(1889)といった明治期の「開化絵」が並ぶ。また、アイヌ民族の着物のそばには、2018年に札幌芸術の森美術館にて回顧展が開催された藤戸竹喜の小品も展示されていた。
そして本展は、全国水平社と部落解放全国大会のポスターで締めくくられている。この最後の2点以外に、直接的な運動の資料は展示されていない。展示の「テーマ」は、あくまで博物館のあゆみであり、まず85年から現在までの博物館の活動がパネル展示を中心になされ、35年間に行われた展示にちなんだ作品や資料の一部が紹介されるという、静かなものであった。
この小規模な一室で開催されていた「35年展」の内容は、そのまま常設展示のコーナーに重なっている。常設展示は、「いのち・輝き」「共に生きる・社会をつくる」「夢・未来」と、大まかに3つのセクションに分かれる。各セクションにて、館がこれまで取り上げてきたような人権についての展示が、パネルだけでなく資料や作品とともに構成されている。とくに2番目のセクションでは、ボロボロになった「
常設展示の最後には「証言の部屋」という映像ライブラリーが置かれ、1本40分にもおよぶ様々な当事者の語りを聞くことが可能であった。この常設展について付記すべき重要なことは、決して誰かを糾弾し、追い落とそうとしているものでも、非難しているものでもないということである。そういったメッセージを掲げるのではなく、淡々と資料や作品が陳列されている本展は、入場者数や売り上げ、エンターテインメントといった新自由主義的なことと距離をきちんと置いて
美術館や博物館に求められる、「市民が納得する展示内容」が実際に存在するとして、それはいったいなんであり、何を実現と呼べるのだろう。また、展示という状態あるいは展覧会という形式が、何かを伝達することが可能なものであるとしたとき、「展示内容が分かりにくい」ことはどのようなことを示しているのだろうか。この「35年展」の構造は、ただ展示空間を通るように見るだけでは、陳列されている作品一つひとつの背景は掴みにくく、そのため作品ごとの関係性はより断片的に感じられてしまう。35年という具体的な数字と、作品を結びつけるような解説もなければ、はっきりとした主題も示されていない。
しかし、音がせずとも足音であることを、あるいは声にならずとも声であるのを知るようにして、その不在を読み取る方法がこの施設内に静やかに用意されている。この展覧会の持つ構造は、とても複雑な形で博物館の常設展の構成に重なっている。1度目として見た企画展の「35年展」の後で、常設展のうちに、繰り返される「35年」のフレーズを見つけ出すことはとても自然な体験だった。個別のケースが成立する諸要素を切り出して、その複雑な構文の存在を読み解くことでようやく触れることのできる経験こそが、「35年展」で一番の展示内容だったに違いない。そうしてようやく「置かれたもの」に気がつくことができるのだろう。
「この交替的な動きは、各文の複雑さだけではなく、錯綜する語りの全ネットワークが絶えず読者に要請する、読むこと〔reading〕――あるいはむしろ、繰り返し読むこと〔re-reading〕――の動きに似ている」(*2)ように、それを可能にしているのは、私たちが(唯一)繰り返す(ことのできる)鑑賞(という関わり方)そのものだ。そのうえで、様々な展覧会に際して声高に示されるテーマとは、ひとつの虚構でもあるだろう。しかしながらそうしたテーマの存在自体が、「虚構とはいえ、静態的なものではない」(*3)ことを、声なき声が同時に教えてくれている。その語源通りに、置かれている。
閉館後の2020年6月19日に出された声明(*4)には、「本和解の成立にともなって、リバティおおさかに関しては7月には、事務所の大阪市港区への移転、収蔵物の大阪市の施設への移動、そして建物の解体工事が始ま」るとある。大阪人権博物館が所蔵する約3万点の史料のなかには、砂澤ビッキの彫刻や、ユージン・スミスとアイリーン・スミスの《水俣》(1971–75)シリーズのオリジナルプリントなども含まれる。先日は丸木位里・丸木俊《原爆の図「高張提灯」》(1986)が、武蔵野美術大学美術館に移管された。そうした「作品」には、その記名性ゆえに、その次・その後の場所があるだろう。
だが、「35年展」と並行して特集展示として開催されていた、薬害エイズの被害者である岩崎孝祥(1973-93)の絵は、あるいは常設展示の最後に設けられた「証言の部屋」における、当事者たちへのインタビューによる膨大な映像アーカイブは、再びどこで、どのように展-示されるだろうか。ベンヤミンについての有名なフレーズを引くまでもなく、むしろ、「無名な人々」とは誰であるのかを考えることで参与できることがある。彼にも彼女にも、当然ながら私たちにも名前が在る。
2020年5月31日をもって、大阪人権博物館は現在の場所での活動を終えることになった。この場所はもともと、地元の被差別部落の人たちが小学校用地ために資金を集めて取得し、市に寄付した土地である。最終日前日の30日には、報道などで閉館を知って来館した人々でにぎわっていた。現在、2022年の再開に向け動いているようである。内庭のような空間に、ひっそりと丸木位里の筆による「大阪人権歴史資料館」の館銘板が置かれていた。
*1──荊冠旗は、全国水平社創立の中心メンバーのひとり、西光万吉がデザインした水平運動のシンボルである。
*2──ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー ――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』岩波書店、2012、77p
*3──同上、179p
*4──「リバティおおさか裁判に関する和解についての共同声明」、http://www.liberty.or.jp/cp_pf/index2015.html(参照2020年8月20日)