中川周撮影による青木野枝「微塵」
NHK『みんなのうた』に大貫妙子作詞作曲の「メトロポリタン美術館」という名曲がある。番組での初放映は1984年。夜の美術館を舞台とするオペレッタ風の曲調で幅広い世代に愛されたロングヒット曲だが、幼い頃にこの曲を聴き、「大好きな絵の中にとじこめられた」というラストフレーズにトラウマを植えつけられた視聴者も少なくないのではないか。
それにしても「メトロポリタン美術館」が歌うような、誰もいない夜の美術館に忍び込む設定はこのうえなく魅惑的なシチュエーションである。名画の前にいちいち列をつくる億劫さもなく、他人の身体や会話の声に煩わされることもなく、思う存分に気になる美術作品を観賞することができたら。ノイズを極力排した観賞を提供する無人の展示空間は、ある意味、観賞者にとって究極の夢のかたちであったはずだ。
だが、コロナ禍で世界各地の美術館が展覧会の延期や休館を余儀なくされたとき、誰も望まない経緯で方々に出現することになった無人の展示空間は、当然のことながら「メトロポリタン美術館」的な夢想と童心が投影される魅惑の舞台などでは決してなかった。「作品の保存・収集・展示」という美術館の根幹に関わる活動のうち、最後のひとつが機能停止に追いやられている。これは文化の公共圏にとっての痛手以外の何物でもない。この窮状を受けて多くの美術館がオンラインで展覧会を発信する試みを積極的に行ったが、360度カメラで観賞者の「見たい」欲望に応えるヴァーチャルツアーにせよ、ウェブサイトやSNSを通じての展示風景の惜しみない無償公開にせよ、現実の観賞体験の代理物に過ぎないという印象を払拭するほどのコンテンツは残念ながらあまり見受けられなかったように思える。
なるほど確かにオンライン上では、観賞体験を代理するための技術的な選択肢が増えている。しかし、画期的で利便性が高く感じられる配信方法も、おおよその設計とパターンがわかってしまえば飽きがくるのは早い。オンラインはむしろ現実を希求させる。美術館が徐々に平時の活動に戻ろうとしているいま、ふたたびオンライン美術館に独自の価値を見出す人がいるかといえば、はなはだ疑問である。
誤解のないように書き添えておくと、私はオンライン展示に可能性がないなどと断じたいのではない(*1)。実際、緊急事態宣言下で外出が不自由であったとき、オンラインで作品を見せるいくつかの試みからは刺激と恩恵を受けた。オンラインという条件を反省的・批評的にとらえ直し、観賞の体験を異なる次元に拡張するようなオンライン展示であれば、繰り返しの再生・視聴に十分耐えうるものが生まれる場合もある。そして、そういった試みは必ずしも大掛かりな技術や仕掛けを投入したものに限らない。
自粛期間中、もっとも感銘を受けたオンライン展示のひとつとして、私はgallery21yo-jにおける青木野枝展「微塵」の動画記録を挙げたい。撮影は中川周。もともと2020年4月に開催予定だった青木の個展が延期になり、かわりにギャラリーのウェブサイトで「微塵」の展示風景を記録した動画が公開されたのだ(*2)。
ウェブサイトでは、視聴者が自由に視角や進行方向を操作できる360度カメラのヴァーチャルツアーが1本、Vimeoと連携した展示風景の映像記録が2本、計3本の動画が公開されている。三種三様の興味深いアプローチが確認できるが、ここではメインの展示室に設置された青木の彫刻作品《微塵》(2020)を撮影した2本目の動画を主に取り上げよう。4分14秒という決して長くはない尺のなかで、カメラは鉄のリングの集合体による彫刻作品《微塵》への接近と離反を行い、人間の眼では不可能な空間認識を観賞者(視聴者)に提供する。
中川は普段、美術作家の高嶋晋一とユニットを組んで映像作家として活動する傍ら、展覧会の記録写真などを撮影する仕事に従事している。だからこの動画は、(公開当初の時点では)誰も見ることができなかった青木野枝展の貴重な「記録」であると同時に、撮影者である中川の「作品」といった両義的な性質をもつ。というよりも、観賞者(視聴者)は「青木野枝」「中川周」という作家の固有名をいったん脇に置き、「作品」「記録」のいずれにも分類しきれない特異な世界像に注目すべきなのかもしれない。淡々と事実を述べる平叙文のような虚飾のなさにもかかわらず、この動画には映像を通じて彫刻を見ること固有の経験が圧縮されている。
では、映像の流れを確認しよう。
00:08
カメラはまず《微塵》の下半分のみをフレーム内におさめる。床も壁も一様に真っ白な会場のため、本来はかなりの重量感で空間を占めているはずの彫刻がぽっかりと中空に浮かんでいるかに見える。カメラは徐々に《微塵》に接近し、極端なローアングルでその躯体を舐め上げていく。まもなく天井の採光窓が見えるほどの仰角へ。カメラが彫刻に接近しているのか彫刻がカメラを吸い寄せているのか、一瞬わからなくなる。接地面からの離陸の感覚。上下左右の観念の喪失。極端なローアングルは彫刻のスケールを誇張するためではなく、重力に支配された物体=彫刻を物理法則から解放するための最初のステップとなる。
00:45
カメラが《微塵》に過度な接近を始める。近づきすぎて、密集する鉄のリングが画面全体を占有するほどになる。リングに張られたガラスに別のリングが映り込み、多重的な像が出現する。《微塵》のリングはまるで複眼だ。カメラがこのまま彫刻を貫通するのではないか、と思ったところで滑らかに離反の運動に移行。彫刻の内側から彫刻を見るような感覚、彫刻になって世界を見るような感覚、さらに言えば、カメラの眼が彫刻に乗り移って視覚を全方位に偏在させるような感覚がわずか数秒のうちに訪れる。
01:15
場面転換。展示室の外から、開放された引き戸越しに《微塵》を臨む。カメラは室内外の敷居をいつの間にかくぐり抜けてシームレスに《微塵》に接近し、反時計回りに彫刻の周囲をゆっくり旋回する。この旋回運動のなかで、さきほどのシークエンスでは見えなかった展示室の外の景色がフレーム内に映り込む。無数の間隙をもつ透かし構造の彫刻と、室外の開放的な空気とが呼応している。室内の明度が微細に変化したり陽だまりが床に落ちたりするのは、外から差し込む自然光のためだったことがわかる。
03:50
《微塵》を間近でとらえていたカメラが徐々にズームアウト。《微塵》は終始、ホワイトキューブの中性的空間で無心な環境体と化している(はなから誰からも見られることを求めていない、といった風に)。カメラの引きの運動で彫刻の全体像がフレーム内にすっぽりとおさまり、フレームの両端で引き戸が自動ドアのように映像の「閉じ」を助けたところで動画は終わる。よく見ると画面の左上隅に、風にそよぐ樹枝が映り込んでいる。無生物である彫刻が微動だにしないなか、途切れず流れるカメラの動きのみが映像に運動性を与えているのだが、揺れる樹枝だけはこの運動性と別の律動に属しており、彫刻とは無縁の自然物としてただ現象している。このことに気づいたとき、フレームに閉じ込められた映像の世界は「外へと開く」。
通常、現実空間で彫刻作品を見るとき、観賞者は素材のもつ物質感や重量感、空間を占めるスケールといった要素を否が応にも感受することになる。青木の彫刻作品はそうした彫刻独自の特性に転回をもたらす側面があり、しばしば「重力からの開放」「軽やか」といった形容で語られてきた。しかしその青木の「軽やかな」彫刻とて、ある「かさばり」を持って空間を占めるという物理的事実から完全に逃れられるわけではない。溶接・溶断された鉄は「マチエール」と呼びたくなる質感を備えているし、光の変化を受けて透明性をも帯びる。そして何よりも、彫刻とそれを取り巻く周囲の空間は、あくまで観賞者の身体的な尺度を基準として感得される。
対して、映像のなかの《微塵》はどうか。
オンラインの世界には三次元の物体の厚みも身体的な尺度の入り込む余地もない。無人と無音の隔離空間から観賞者(視聴者)の身体は徹底的に疎外されている。観賞者(視聴者)は、二つの眼を持ち二本足で地上に立つという身体的条件から解放され(たと錯覚し)、離人症的な感覚をもってこの映像に臨むことになるだろう。ここで実現しているのは、空中に漂う塵芥の目線から彫刻を眺めるような、脱人間中心主義的な世界像である。
緊急事態宣言が解除された5月以降、美術館やギャラリーで作品の実物を観賞する機会がようやく取り戻されつつあるが、「ソーシャル・ディスタンス」なる標語が人々の行動様式を束縛する時代において、オンライン展示とは何か、映像を通じた作品観賞とは何かといったテーマが今後も問われ続けることは間違いない。これまで自明とされてきた、観賞者の身体や視覚を条件づけるシステムも大きな変容を被るだろう。同時に、記録やアーカイブの役割も増していくはずである。アフターコロナの観賞者の身体や視覚がどういった地平に赴くのかはまだわからないが、「微塵」展を記録した3つの動画は人間なき世界の予見的ヴィジョンを微かに示していたのではないか。非人称の視覚が映像の隙間を縫って顕現したとき、フレームのなかで彫刻は誰のものでもなかった。
*1──本稿で言う「オンライン展示」とは、新型コロナウイルスの影響を受けて休館・延期となった展覧会のかわりにウェブ上で発表・公開された展示のことを指し、はじめからオンラインのみで発信することを企図した展示は含めないことにする。
*2──動画は2020年7月現在もgallery21yo-jウェブサイトと青木野枝の公式ウェブサイトで視聴可能である。
gallery21yo-j http://gallery21yo-j.com/
青木野枝ウェブサイト http://www.aokinoe.jp/news/