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REVIEW - 2020.3.19

いま写真は何を語るか? 清水穣評 金サジ「白の虹 アルの炎」「田附勝 KAKERA きこえてこなかった、私たちの声展」

自身のルーツを出発点に独自の神話的世界を展開する金サジの個展「白の虹 アルの炎」(THEATER E9 KYOTO)と、社会で見過ごされてしまうものを写真のテーマに据えてきた田附勝による個展「田附勝 KAKERA きこえてこなかった、私たちの声展」(横浜市民ギャラリーあざみ野)。ふたりの写真家による表現の現在地を、清水穰がレビューする。

文=清水穰

金サジ「白の虹 アルの炎」展の展示風景 撮影=麥生田兵吾

写真のきわ

 写真は言葉に対して無防備であるがゆえに、絶対的に中立的である。平凡な風景写真に「暴走事故で幼い命が犠牲になった場所」などと書き添えれば、その平凡さが切ないオーラとなり、ありきたりの人物写真でも「撮影時すでに末期がんだった」などと聞けば、見えるはずもない運命の予兆をその表情の上に探してしまう。しかし後付けの物語は写真の見方には影響しても、写真自体を変化させはしない。写真が言葉に染まることはなく、写真は饒舌な語り部の道具にはならない。作者が「縄文の古層」を、「在日」を語りたくても、写真の前では徒労である。

 他方、象徴や記号や引用として、様々な記憶や連想、断片的な物語を次々と招き寄せるイメージは数多く存在する。この場合、物語は外から写真に付け加わるのではなく、写真のなかに仕組まれた細部が、われわれの知識や記憶や経験を刺激して物語を引き出す。ただしそうした物語は定型──神話──であるから、手垢の付いた物語(生と死、男と女、人為と自然……)に収まりがちである。オペラや古典芸能が良い例だが、抽象的で平凡な定型が、いかに観る者の具体的な記憶や経験によって破壊されるかが、作品の質を決定する。物語へと誘うイメージ群を使用することと、写真の物語に対する根本的な無感覚性のあいだで、言い換えれば物語の危うい縁で、いったい写真は何を表現できるだろうか。

金サジ 双頭の白蛇  2019 アルミマウント、インクジェットプリント、額装 53×40.9cm

金サジの新しい「STORY」

 金サジ(1981年生まれ)は2016年度キヤノン写真新世紀グランプリを受賞して注目された。受賞作「STORY」シリーズは、いわゆるステージド・フォトであり、未知の神話へ向けて作者が念入りにつくり込んだイメージである。どこか単一の民族や人種や国家、神話や伝統といった還るべき本来性の場所を、われわれは、よほど歴史に無知で素朴でもないかぎり信じられないが、金はあえて生(アル=玉の炎?)と死(白の虹?)、男と女、民族(在日コリアン)と国家(ネーション)といった本来性のモチーフを巧みに組み合わせて、ハイブリッドな新しい神話を演出する。それは、もはや還るべき場所を持たない者がこれから還る場所なのかもしれず、あるいは帰属意識とは異なる、たったひとりのアイデンティティの探求なのかもしれない。

 本展はその最新版として、かつて映画『パッチギ!』(2004)の舞台となったような、京都河原町九条の東に、新たに誕生した小劇場「THEATER E9 KYOTO」で開催された。ファン・エイクやカラヴァッジョに倣った美しく饒舌な細部に満ちた作品群が、小劇場の階段席をステージとして1点ずつ立ててある。インクを吸ってほぼ反射しない特殊な紙にプリントされてきわめてマットな質感の画面にスポット照明が当てられる結果、作品はまるでライトボックスのように暗闇から浮かび上がって、観客に対峙している。静かで動きのない演劇のようである。

金サジ 結婚 2019 アルミマウント、インクジェットプリント、額装 100×80.3cm

 これまでも数回このシリーズの展示を見てきたが、今回の「STORY」がもっとも充実していた。物語への求心とそこからの遠心の両方をともに力強く表現して、きわどく成功している。前者は「在日コリアン」という強力なレッテルである。実際、彼女はマイノリティのアイデンティティを表現する作家として「評価」されている面がないとは言えない。しかし今展はそこから離れて、著名な絵画や宗教画のモチーフを引用し、「在日」という存在を過去と現在の樺太にまで広げ、『古事記』の桃、男根崇拝、神道の稲穂に旧日本軍の銃剣、ペルーのミイラなど多様なイメージ群を混ぜ合わせ、本来性の神話を強力に相対化、異化することができた。

 ただし、レッテルによる「評価」に対して作者の態度は曖昧である。例えば会場出口にステイトメントが掲げられ、金の文才を窺わせたが、展示作品にとっては悪しきサービスだった。それは異化された新しい神話を、再び在日の個人史に塗り込め、例えば男女をめぐる古びた言葉へと回収したからだ。「男は社会に繫がる方法を求めていたのに対し、女は生命が繋がる方法を常に求めていたのではないかと私は考える」。じつはステイトメントは観客の支持を集めていた。写真的に離散した状態に既知の(昭和の?)オチが付いたので、多くの観客は一種の安堵を覚えたのだろう。実際、金の作品のなかで「男」は定型に過ぎない。定型を破壊する「具体的な記憶や経験」が「女」に偏っていることは、作家の目下の限界となっている。

重層的な時間が交錯する田附勝「KAKERA」

田附勝 歌手 山口百恵 1979年(昭和54年)7月7日 朝日新聞(撮影=2017年10月11日千葉県市川市) 2019 発色現像方式印画 92×130cm

 2012年に縄文土器のかけらの静物写真から始まった田附勝の「KAKERA」は、今展に至って重層的な作品群へと成熟していた。まず縄文土器のかけらが帯びている時間の層がある。1万年続いた重層的な時間が交錯する過去の世界がかけらとなって存続している、と。何しろ100世紀分の大量のかけらであるから特別希少とは言えない。無造作に箱に入れられて博物館の収蔵庫や個人の蔵の暗がりで眠っていた。まるでしまい込まれて忘れられた家族アルバムの写真のように。そして、その保管箱に敷かれた新聞(1934〜2002年のスポーツ新聞から全国紙まで)に読まれる発掘当時の現代史の層がある。内容にお構いなく(?)防湿用に敷かれた新聞紙には、発掘当時の時局が(ミュンヘン会談に戦死者情報、皇太子ご成婚に湾岸戦争、広島被爆40年に東電原発トラブル隠し……ややそろえすぎてお喋りな気もするが)読まれる。

田附勝 市立市川考古博物館(撮影=2017年10月11日 千葉県市川市) 2019 インクジェットプリント  43.4×65cm

 数千年前の無言のかけらと数十年前の雄弁な現実の断片の遭遇は、時間を超えてぶつかり合う不協和音のようなものだ。作家が各地の蔵や収蔵庫を巡って数多の不協和音から選び抜いた、奇跡のような時間の交錯が本展を形成している。さらに、撮影時にかけらが紙面へ落とす濃い影によって発生する映像的なレイヤーがあり、その上に、計算された照明によってアクリルに映り込む観客の現在という層が重ねられる。先史(プレヒストリー=物語以前)と有史(ヒストリー=物語)のレイヤー、映像的なレイヤー、そこへ観客の現在がコラージュされるというわけである。

 日付と新聞から、河原温の「Today」シリーズを連想する人もいよう。あらゆる出来事は「今日」起こる、だから日付は時代を貫通して「今日」を再生し続ける、と。しかし田附勝の関心は記念と想起ではなく、歴史の連続と断絶にある。言い換えれば、先史の無言と有史の有言の人知れぬ邂逅の場に、いまぼんやり映り込んでいる我々とは何者か、と。2011年3月11日、惑星規模の出来事が、我々の生に決して消えない区切り(断絶、おわり)を刻んだ。地震による断層と放射能汚染層以降の世代となった我々は、被災者・被爆者として、そこで止まった時とそこから流れる時の二重の時間を、地学的な時間のなかで生きている。

田附勝「KAKERA きこえてこなかった、私たちの声展」の展示風景 撮影=加藤健

 では縄文のかけらは、人間の短い生のなかの区切りを相対化する一種の永遠なのだろうか。写真家は人類学のなかに「還る場所」を見出しているようにも見える。しかしインスタレーションははっきりと、別のメッセージを発している。歴史とはそうした区切りの連鎖にほかならず、歴史を生きるとは二重の時間を生きることにほかならない、と。1万年の後、我々もまた無言のKAKERAとなるだろう。その未来へ、田附勝のまなざしは向けられている。会場の一隅は暗いまま放置されていた。やがてKAKERAとなる我々のために空けてあるのだ。

​(『美術手帖』2020年4月号「REVIEWS」より)