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2018.9.14

「墓」の中に広がる「作品の死」の多様性。
鷲田めるろ評 エキソニモ + YCAM共同企画展「メディアアートの輪廻転生」

10月28日まで山口情報芸術センター[YCAM]で開催されている「メディアアートの輪廻転生」展。本展はYCAMとアートユニット「エキソニモ」の共同キュレーションによるものとして注目を集めている。各作家が様々な視点でメディア・アートにおける作品の「死」について考えた本展を、国内外でインディペンデント・キュレーターとして活躍する鷲田めるろがレビューする。

文=鷲田めるろ

展示風景 撮影=山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供=山口情報芸術センター[YCAM]
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小さな展示物に込められた広大なテーマ

 金沢に住む私にはYCAMは遠い。それでも見に行きたいと思ったのは、本展がメディア・アーティスト・ユニットのエキソニモとの共同企画であり、そして、錚々たる9名の出展者名が並んでいたからだった。

 勝手に大規模な展覧会を想像しながらたどり着き、最初に目にしたのは、吹き抜けの広々とした空間に置かれた、人工芝を貼った小さい山のような構造物。展示会場はそれだけだった。古墳のようにも見えるそれは「メディアアートの墓」だという。1ヶ所だけ開いている入口から入ってゆくと、携帯端末、バッジ、ハードディスク、電話などがケースに収めて展示してある。展示品全部まとめてもスーツケースひとつに入れて持ち運べそうなほどしかない。あっけにとられるほど、小さな展覧会だった。

展示風景 撮影=山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供=山口情報芸術センター[YCAM]

 「墓」の外に掲げられたステートメントによると、この企画展の出発点となっているのは、技術的環境が更新されハードウェアやOSが古くなってしまったとき、作品は再現可能かという問題意識である。「墓」の中のアイテムは、それぞれの作家が、「死んでしまって」「墓に入れるべき」と考えた作品だ。

 ステートメントを読んで私は、この問題をミュージアムという制度の問題としてとらえた。メディア・アートに限らず、作品を成り立たせている物質的なモノはすべて、長期的には劣化してゆく。モノと作品とが分離できない場合、例えば絵画のキャンバスとその上に置かれた絵具のような関係では、光に当てず、温度湿度も管理して、モノが劣化しないように努めるしかない。

 この努力をしているのがミュージアムという施設である。しかし、現在では物質的なモノのかたちを取らない作品も増えている。パフォーマンスやプロジェクトもあるし、映像でも解像度や縦横比が保てれば、モニターは交換が可能な作品も多い。こうした非物質的な作品の場合、作品は指示書といったかたちをとる。こうした理由から、ミュージアムにおいては、モノを保存するだけでなく、指示書など作品外のドキュメントを合わせてアーカイブすることの必要性が高まっている。

展示風景より。ラファエル・ロサノ=ヘメル《アモーダル・サスペンションー飛びかう光のメッセージ》(2003) 撮影=山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供=山口情報芸術センター[YCAM]

 そのようなことを思いながら「墓」の中の展示を見てゆくと、たしかに、作品の再現可能性を問題とした事例もある。ナム・ジュン・パイクの作品は、ブラウン管という再生装置の特性を使っている。ブラウン管自体がなくなってしまった今日、どのようにしてパイクの作品は再生可能なのか。

 高嶺格が展示した作品もパフォーマンスの保存の問題と関係する。同作は美術館に電話が置いてあり、その電話の受話器を取ると、自宅にいる高嶺と話すことができる作品である。電話回線というテレコミュニケーションのメディアを使っている点でメディア・アートとしてとらえることもできるが、高嶺がその作品を「死んだ」とした理由は、その電話に出る自分はいまとなっては存在しないということであった。そのため、機材の更新に関する問題としてではないのだが、パフォーマンスは再現可能かという問題として、ミュージアムという制度の問題に含むことができよう。

 しかし、「墓」の中にあった「死」はそれだけにとどまらず、はるかに広い射程を持っていた。例えば、徳井直生の場合、作品はiPhoneのアプリであり、それをアップルストアを通じて流通させるものであった。そのため、アップルという企業の判断によって、作品が流通させられなくなる事例を示していた。この作品の「死」は、再現や保存といったミュージアムの問題によってもたらされたのではなく、作品の流通手段をプラットホーム企業が押さえているという経済的な構造によるものである。そして同様に岩井俊雄のゲームソフトとしての作品もまた、制作・販売する会社によって「死」がもたらされるケースを示していた。

 いっぽう八谷和彦は、社会的な規制によって、かつては展示できた作品が現在では展示できなくなるという状況を示していた。八谷の《ひかりのからだ - Vanishing Body》は「デ・ジェンダリズム」展(世田谷美術館、1997)で展示された作品だが、鑑賞者は全裸になって作品を体験するというものであった。しかし、八谷は現在ではこの展示は実現できないだろうと言う。八谷はそれを「死」ととらえていた。

 このように、この展覧会は保存や再現の問題からスタートしながらも、招聘されたアーティストたちによって「死」の意味が様々にとらえられ、「作品の死」というテーマが膨らむことになった。「墓」の中で30分ほどの時間を過ごした私は、大いに刺激を受けて「墓」を出た。

展示風景 撮影=山中慎太郎(Qsyum!) 写真提供=山口情報芸術センター[YCAM]

 「墓」の外側、ガラス壁面や吊り下げられたバナーには、これまでYCAMの活動に関わってきたアーティストなどの、作品の死に関するアンケートの回答が書かれていた。アンケートの全文は特設ウェブサイトで読むことができる。そのなかで藤井光は、検閲や自己規制によって発見できなかった作品についても「胎児殺し」として作品の「死」に含めていた。

 八谷の事例では、一度美術館で「誕生」した作品が、現在実現できないことを「死」としているが、社会的な情勢が変われば蘇る可能性はある。藤井の言う「誕生しなかった」作品も情勢が変われば実現できる可能性はあるという意味では、八谷の「死」のとらえ方と重なるが、藤井の場合は作品の「保存」という範疇は完全に超えている。こうしたテキストもさらにテーマを膨らませていた。展示物は小さくとも、そこには、大きなテーマが込められていた。見にきた甲斐は十分にあった。