三宅唱+YCAM「ワールドツアー」展 「やくたたず」の映像たちはただ存在する 土居伸彰 評
映画監督の三宅唱の構成によるインスタレーション《ワールドツアー》は、山口情報芸術センター[YCAM]による映画製作プロジェクト「YCAM Film Factory vol.4」の一環としてつくられたものだ。会場となるYCAMのスタジオBには、巨大な3面スクリーンが2枚、大きな丸ガッコを描くように対になって並び、鑑賞者はその間に挟まれながら映像を浴びるように見る。2つのスクリーンのあいだには、透明なガラス板が吊り下げられている(これについては後述する)。
タイトルの「ワールドツアー」はかつて三宅の監督したドキュメンタリー映画『THE COCKPIT』(2014)に出演したラッパー、OMSBの楽曲から採られており、3面スクリーンはそれぞれ「A面」「B面」とレコードもしくはカセットテープのマナーに従って名付けられている。《ワールドツアー》は飛行機の機内から撮影された空の映像で始まり、そのタイトルから華やかなミュージシャンの世界旅行を予感させもするが、1時間のループ映像になっている「A面」に映るのは、なんということもない、ごく日常的な映像だ。
このインスタレーションは、三宅がウェブマガジン「boidマガジン」で連載する「無言日記」が出発点になっている。三宅が日常のうちに見出した「映画的な瞬間」を自身のiPhoneで撮影したものに基づいた映像日記である。《ワールドツアー》は「無言日記」の拡張版で、2017年の夏から18年の4月にスマートフォンで撮影された映像が使われている。撮影者は三宅だけではなくYCAMスタッフなど周辺の関係者までを含み、20名を超える。
撮影者が複数になることで、映像は匿名的なものとなるが、その匿名性は、三宅による編集の段階でおそらく意図的に強められているのだろうと推測する。なぜかと言えば、これほど多くの映像が流れていくのに、その映像の連鎖のうちに(映画が通常そうであるように)、物語が立ち上がる気配がないからだ。結婚式や誕生日のように、どれだけ個人の記名性の高い映像が使われていたとしても、映像が何を語りかけようとしているのか容易には掴めない。ただそのままに存在するだけの映像が連なる《ワールドツアー》は、まさに「無言」である。
ただ、見続けていると、映像のつながりに法則性があることは見えてくる。夏から翌春へと次第に季節が巡っていき、決して後戻りはしないということ。そして、3面スクリーンには、同じ日、同じ時間帯に撮影されたものが同時に映るということ。そんな法則を理解すると、このインスタレーションはハッとする瞬間にあふれ始める。例えば、ときおり外国の映像が混じり、同じ時間帯であるのに3つの画面が昼と夜に分かれるとき。もしくは、誰かが発表会か何かで楽器を懸命に演奏する傍らに、孤独に撮影された夜景が並ぶとき。同じ瞬間、別の人たちが生きるそれぞれの世界があることが、突如として想像の範疇に入り込んでくる。同じ時間は、こんなにも違うのだということに、胸を突かれる想いがある。
本展の会場には左右に小さな窓が2つ開けられていて、そこから覗くと、YCAMのホワイエや同じ建物の中にある図書館で時を過ごす人たちの姿が見える。それは《ワールドツアー》のコンセプトをさらに強める。ここで映像を見ている私がいて、それを撮影した誰かがいる。しかしそんなことも知らぬまま、別の時間を過ごす人がいる。こんなに近い場所にいるのに。だったら、この外にはもっと、違う時間を過ごす人たちがいるにちがいない……。かくして本当の《ワールドツアー》は鑑賞者の想像のなかで始まる。
「A面」の背後に流れる「B面」では、物凄い速さで映像が流れていく。三宅によれば、「B面」は「A面」に使われなかった残りの映像すべてが映される場所なのだという。ここでようやく会場の真ん中に吊るされたガラス板の話をすると、「A面」に背を向けてガラス板越しに「B面」を眺めるとき、両者の映像は重なりあい、そのあいだには自分自身の姿が挟み込まれる。三宅が「走馬灯」と形容することもある「B面」の映像は、「A面」や鑑賞者の姿と重なるとき、私たちがいまこの瞬間にもどれだけの時間を置き去りにしつつあるのかを鑑賞者に感じさせる。
それは翻って、これほどまでに数多くの瞬間が流れ去るなかで、私たちがいまここにしか存在しえないことも改めて思わせる。そこまで思い至ったとき、《ワールドツアー》の無言の映像は、突如として別の質を帯びるようになる。これらの日常的な瞬間はどれも、特権的なのだと気づく。眼の前に展開する景色は、その時その場所にいた誰かだからこそ目撃できたものであり、他の誰かではとらえることのできなかった特別な何かなのだ。たとえそれがなんでもないもののように見えたとしても。
三宅の長編デビュー作『やくたたず』(2010)のことを思い出す。卒業を控えた高校生が社会人生活を一時的に体験し、自分たちがたんなる「やくたたず」に過ぎないことを知る映画だ。『やくたたず』において、彼らは「生徒」というカテゴリーからはみ出て、社会的に有用でもないがゆえに、ただ存在だけが剥き出しとなる。同じような意味において、《ワールドツアー》の映像は「やくたたず」である。それは何も語らないし、美しいものでもない。ときおり、なんのために撮影されたのかわからないような映像が入り込みさえする。しかし、それは撮影者の存在を指し示す。鑑賞者にとっては誰とも知れぬ人々が、確かにその場所を占めていて、その瞬間、世界と向き合っていたことを。
《ワールドツアー》についてもうひとつ特記すべきは、いったんそのリズムとグルーヴを掴んでしまえば、なんだかとても笑えるようになるということだ。何か面白いものが映るからではない。ただ単純に、なぜかわからないが、笑ってしまうのだ、なんでもないはずのものなのに。いや、おそらく、なんでもないからこそ笑ってしまうのである。何かがそこにあって、それに向き合った人がいるということ自体に。さらに言えば、いまここで、その「無言」で「やくたたず」の映像に向き合っている自分がいるという事実自体に。《ワールドツアー》のなか、流れ去る瞬間が連続し、地球が回っていくことを感じとるなか、この場所に、こんなふうにただ佇んで存在していること自体が、途方もなく特権的かつ偶然的すぎて、笑ってしまうのだ。