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2018.4.20

「リアル」な絵画とは何か?
小金沢智が見た、「リアル 最大の奇抜」展

迫真性にこだわらない伝統的な日本画。その手法は江戸時代に円山応挙らによって打ち破られる。応挙らが挑んだ、目に映るものを冷静に分析して描く「リアル」な江戸絵画に焦点を当てた展覧会「リアル 最大の奇抜」展が東京・府中市美術館で開催中だ。本展に日本美術を専門とする太田市美術館・図書館学芸員の小金沢智が迫る。

文=小金沢智

展示風景
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「リアル 最大の奇抜」展 「リアル」なるものへの距離 小金沢智 評

 真っ向勝負のシンプルなタイトルとテーマでありながら、すぐさま答えがたい、いくつもの問いを投げかける展覧会が開かれている。2013年の「かわいい江戸絵画」から始まり、14年「江戸絵画の19世紀」、15年「動物絵画の250年」、16年「ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想」、17年「歌川国芳 21世紀の絵画力」と毎年継続することで定着した府中市美術館の「春の江戸絵画まつり」シリーズ、18年のテーマは「リアル」である。

 そもそも、「リアル」とはなんだろう。私たちはしばしば、「それはリアルだ」「リアルではない」などと言い、絵画をはじめとする芸術表現にかぎらず日常的な生活でも用いている。迫真的であるとか、現実感があるとか、そういう状況を指す言葉である。主催者は本展の趣旨について、西洋画法による「リアルに描くこと」は明治時代の欧化政策を背景にした「きわめて限られた『リアル』のあり方」であり、「迫真性にこだわらない、純粋な色や形そのものから醸し出される美しさ」が「日本絵画の大きな魅力」と述べたうえで、本展が画家のそこに対する「美意識」と「迫真的に表すこと」とのあいだで生まれた絵画の魅力を探るものであると説明している。つまり本展は、「これがリアルである」と明言するというよりもむしろ、「リアルであるとはどういうことか」という認識の揺らぎを問題にしていると言えるだろう。

 江戸時代の絵画を対象にする本展は、例えば写実絵画専門のホキ美術館開館(2010)に象徴される、まるで写真かのような対象の克明・精緻な描写という意味で近年人気を博している「リアル」(写実的)な作品を展示するものではない。それらの作品がまさしく明治時代の西欧化を大きな源流とするものであるならば、今回の主旨は、明治時代以降の「リアル」な表現と江戸時代のそれとの連続性というよりも断続こそ見せようとしているからである。このことは、江戸から明治という歴史の大きな転換期の非連続性を指摘することによって、逆説的にその時代毎の特徴を浮かび上がらせようとしている点で興味深い。なぜなら、日本美術史という学問は、専門上、断続しがちな江戸と明治という時代区分を、できるかぎり接続しようと努めてきた側面があるからである。

 そのことを指し示すように、本展では「写生」の円山応挙、「洋風画」の司馬江漢という明治時代以降の西洋美術教育による「写実」表現とも比較・接続しやすい二人の画家の作品をまとまった点数陳列しながらも、二人の展示に至るまでのセクションで、「リアル」という視点から選ばれたじつにさまざまなタイプの作家の作品を展示している。それらは、迫真的で今なお見るものを唸らせる描写の作品である場合もあれば(1章:リアルの力)、同時に奇妙さも伴っている場合(2章:「リアル」から生まれる思わぬ表現)、または、「リアル」な描写と伝統的な様式を折衷した場合(4章:従来の描き方や美意識との対立と調和)など、本展における「リアル」の射程は複合的だ。そうして、私たちに「リアルとはなにか」と問いかけていると言えるだろう。

 ただ注意しなければならない。例えば、円山応挙の《虎図》がそうであるように、描かれた対象を画家が見ているとはかぎらない。絵画とは、必ずしもモティーフを直接的に実見した上で描写せず、前代から受け継いだ主題、構図、技法、様式からの研究によって制作されるものだからである。本展でも、画家がその対象を見て描いたもの、見ずに描いたものが混在しているはずであり、そしてそのことは、結果として制作された作品の傾向の類似を意味しない。つまり、見て描いているから「リアル」であり、見て描いていないからそうではないという点が、本展を「リアル」という視点から見ることの困難さと、「リアルであるとはどういうことか」という問いを浮かび上がらせている。

 当時にかぎらず、絵の鑑賞者は、残された素描や粉本などから推し量ることはできるものの、画家たちがある絵を描くまでに何を見て何を見ていないのか、当然ながらその視覚体験の全貌を知らない。体験と絵とは、どのような関係を結んでいる(あるいは、結んでいない)のだろうか。ここにまた問いが生まれる。すなわち、「画家が対象を見ずに描いたその絵は、では偽物であるのか? にもかかわらず、あなたがそれをリアルであると感じるならば、描かれたものが、そのものらしい(リアルである)とは、一体どのようなことなのか?」。

 「絵空事」という言葉がある。どれだけ迫真的に描かれていようとも、それは元をたどれば画材に還元される。「虎の絵」は「虎の絵」であり、「虎そのもの」ではない。第二次世界大戦中の作戦記録画における日本画家たちの仕事が、多くの洋画家たちのそれとは異なって、「リアル」な戦場というよりも象徴的な主題を描くものであったように、日本絵画はもとより(いま、江戸と昭和を日本の絵画技法・様式という点で無理やり接続してしまったが)、迫真性という意味での「リアル」とは、やはり距離がある。ただ、現実感という意味での「リアル」とは、近しい距離を持ちうるのかもしれない。そういう、「リアル」への距離及び考え方の違いが、本展では現れているのだと思う。

 それが、紙やキャンバスに墨や岩絵具や油絵具で描かれたものであると知りながら、私たちは絵を見、画家たちは絵を描く。なぜ絵を見るのか。なぜ絵は描かれるのか。そう答えの出ようのない謎めいたことを考えるとき、本展が、平成の現在からは遠くなった江戸の「リアル」なるものを主題としながら、「絵とははたしてなにものか」という絵画の根源へ、江戸の画家たちが(も)向かおうとしていたのではないかとイメージさせるものになっているという点で、大きな刺激を受ける展覧会だと私には思われるのである。