約150年前の1876(明治9)年。西洋からもたらされた油彩画や石版画、写真などの表現を木版画(浮世絵)に取り込み、これまでにはない東京の風景を描いた絵師がいた。その名は小林清親(1847〜1915)。もともと江戸幕府の下級御家人だった清親だが、1876〜81年の6年間にわたり、夜の街に輝くガス灯の光をはじめ、光や影のうつろいを巧みにとらえた風景画「光線画」を生み出した。
光線画の特徴は、従来の浮世絵では一般的な主版(輪郭線)を用いず、色の面で人物な自然をとらえていること。また光線画という言葉からもわかる通り、「光」そのものに対する意識が強く、水面に映る月明かりや行燈、ガス灯など、光の表現には目を見張るものがある。深い闇とそこに浮かぶ光のコントラストは、人々のなかに「光」に対する意識が芽生え始めた明治期という時代を反映しているかのようだ。
清親による光線画は「短命」だったが、木版画の新たな可能性を切り開くものとなった。大正時代には永井荷風らによってノスタルジックなものとして再評価され、近年注目される「新版画」(*)の先駆けとも位置付けられるという。
太田記念美術館の「闇と光―清親・安治・柳村」(11月1日〜12月18日)は、この光線画で世界を表現した主要な3人の絵師──清親、井上安治(1864〜1889)、小倉柳村(生没年不明)──にフォーカスした展覧会だ。担当学芸員は同館主席学芸員・日野原健司。
本展では、小林清親を中心に、これまで紹介される機会の少なかった安治と柳村の作品合計約200点を展覧。前期と後期で全点展示替えを行い、それぞれ100点が並ぶ。
日野原は光線画について、「新しい西洋の技術に伝統的な木版画で挑戦している点が特徴だ」と話す。文明開花によって生活が様変わりし、写真や水彩、油彩など新たなメディア・画材が輸入されるなか、清親は従来の浮世絵には見られなかった西洋絵画的な表現に挑んだという。
本展出品作品の大半は清親が占めており、代表作である「東京名所図」から89点がずらりと並ぶ。「名所図」とは言え、清親の視線は独特だ。近代化を象徴するような建物を描いた《海運橋 第一銀行雪中》(1876頃)でさえ、明るいムードではない。日野原は、「幕臣だったからこそ、文明開花から距離をとるような冷静な眼差しがある」と清親を評する。
技法的な部分にも目を向けたい。清親作品には、同じ版で部分的に色の摺り方を変えた「摺り違い」の作例が多く見られるという。例えば《江戸橋夕暮富士》(1879)は、夕暮れ時の富士山を望む画だが、主版が黒から茶色に変わることで、まったく異なる景色となっている。
また清親は「ニス引き」という技法も用いた。これは画面全体に透明な樹脂(ニスのようなもの)をコーティングしたもので、画面がやや黄ばんで見える。油絵のような効果を出すことが狙いであり、「西洋的な絵画をいかに木版画で表現するかという試行錯誤の表れ」(日野原)だという。
光線画の「生みの親」である小林清親は、あっさりと光線画を止めた後、風刺画や江戸時代の浮世絵に回帰した風景画や歴史画、戦争画など、異なる画風を展開していった。その清親の光線画を受け継いだのが井上安治だ。しかしながらその生涯は短く、数え26歳という若さでこの世を去っている。日野原は安治について「清親と比べ、あるがままの東京の街をフラットに眺めているのが特色」と話す。
安治の「東京真画名所図解」は、絵葉書サイズの四つ切判として制作されたもの。清親作品をそのまま下敷きにしたようなものも含まれている点が興味深い。本展では、四つ切判を切り離す前の状態で見ることができる。
本展で注目したいのは、清親に倣って光線画を手がけたとされる小倉柳村だ。現在、確認されている現存作品数はわずか9点。経歴もまったくわかっていないというという謎多き人物だ。本展は、この柳村作品をまとめて見ることができる貴重な機会となっている。
日野原は、「光線画には独特な風景が広がっている。現代の人から見ても不思議な感覚に入り込めるのではないか」と振り返る。木版画だからこそ可能となった、闇の色と光の色。そして、変わりゆく時代の中だからこそ生み出されたノスタルジックな世界。太田記念美術館で、その画面に見入ってほしい。
*──版元・渡邊庄三郎(1885〜1962)が大正初年に始めた、浮世絵の彫りと摺りに同時代の画家の絵をあわせて新しい表現を開拓した動向と作品を指す。詳しくはこちら。