1866年に出版され、以来一度も絶版になることなく、170以上の言語に翻訳されてきた『不思議の国のアリス』と、続編である『鏡の国のアリス』。数学者にして写真撮影の先駆者、挿絵画家でもあったチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンというヴィクトリア時代の博学の人物が、ルイス・キャロルの名で著したナンセンス文学随一の傑作だ。アート、映画、音楽、ファッション、演劇、写真などあらゆるジャンルでモチーフとなり、多くのクリエイターたちに、さらには、CERN(欧州共同原子核研究機構)で宇宙初期に存在していた物質相の性質を解明する実験に「ALICE実験」の名がつくなど、科学の分野でもインスピレーションを与えてきた。
森アーツセンターギャラリーで開幕した「特別展アリス」には、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)の収蔵品に加え、コレクターや世界各地の博物館の所蔵品など約300点を出展。展示は5部で構成されており、第1部のテーマは「アリスの誕生」だ。
チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、クライスト・チャーチ学寮長の次女であるアリス・リドゥルに創作物語を話して聞かせたことがきっかけとなって『アリス』2作品が生まれたことは広く知られているが、本の出版にあたってジョン・テニエルに依頼した挿絵の原画や校正刷り、自身が撮影したアリスの写真などが第1部で展示されている。例えば、ドジソンはカメラに夢中だったようだが、《夢》と題して、二重露光によって眠る子どもの夢に占星術師や三賢者が現れる場面を表現したように、新しい技術への好奇心が旺盛だったことが展示全体から伝わってくる。
第2部のテーマは「映画になったアリス」。幻灯機やカメラを好んだドジソンだったが、初めて『アリス』が映画化されたのは、残念ながらドジソンの死から5年後の1903年だった。パーシー・ストウとセシル・ヘップワースが製作・監督を務めた白黒のサイレント映画だ。コンピュータ技術なども未発達だった時代だが、チェシャー猫や白うさぎの登場の仕方や消え方なども巧みな映像技術で表現されており、モニターに映される貴重な映画は必見だ。それ以降、各国で1951年にはディズニーのアニメ映画は世界的にヒットし、ヤン・シュヴァンクマイエルがストップモーションを取り入れた『アリス』やティム・バートンによる『アリス・イン・ワンダーランド』など、アリスの世界は多様な手法と技術でスクリーンに映し出されていく。
続く第3部「新たなアリス像」では、1920年代から30年代のシュルレアリストたちから、60年代以降のサイケデリックな表現などが紹介されている。
第4部のテーマは「舞台になったアリス」。原作に加えて映画で世界的な人気を博した『アリス』2作品は、母国であるイギリスで多くの劇団、バレエ団がレパートリーに加えた。イギリス文化を継承するために季節の節目に上演されるようになり、ルイス・キャロルが創造した不思議なキャラクターたちのリズミカルでナンセンスな詩的世界と、挿絵画家のジョン・テニエルによるヴィジュアルを舞台にどのように表出させるか、演出家や振付家、衣装デザイナーにダンサー、役者たちも多様な表現を生み出そうと尽力した。
最後の第5部のテーマは「アリスになる」。ヴィヴィアン・ウエストウッドやヴィクター・アンド・ロルフら多くのファッションデザイナー、スタイリストやファッションエディターたちは、アリスのピュアで力強い姿に、あるいは奇妙でありながらキュートなキャラクターたちの姿に刺激されてスタイルをつくりあげてきた。そして、不思議の国で出会う困難や冒険を経て成長するアリスの好奇心に満ちた姿は、様々な分野で不可解なことに疑問を投げかけて独創的な解釈を提示し、勇気を出して納得できないことに抗議する姿の象徴にもなった。
展示の最後には、「起きなさい、アリス! もうお茶の時間よ」というお姉さんの声で目を覚ますアリス。時代もジャンルも関係なく、あらゆる境界を超えてインスピレーションを生み続けてきた『アリス』の世界を存分に味わえる展示にどっぷり浸かって堪能してほしい。