6月9日より東京・六本木の国立新美術館で開催される「ファッション イン ジャパン 1945-2020 —流行と社会」(以下「ファッション イン ジャパン」、5月16日までは島根県立石見美術館にて開催)。そのプレイベントとして、2021秋冬シーズンのRakuten Fashion Week TOKYOの一環として同美術館で開かれたのが、丸龍文人によるブランド「フミト ガンリュウ」と山縣良和によるブランド「リトゥンアフターワーズ」による、ランウェイショーとインスタレーションだ。
このショーの空間演出は「リトゥンアフターワーズ」のデザイナーとしても知られる山縣良和が手がけた。「必然的多様性」をテーマに、国立新美術館のエントランスロビーには合掌造りの屋根を模した大型のパネルが設置され、そこに写真家・田附勝による手仕事の「手」を写した写真を引き伸ばして展示。その中央には、和紙布でつくられた洋服を土に埋めたショーケースが設置された。フミト ガンリュウのベーシックなアイテムをベースに時代性を取り入れながらアレンジしたコレクションを身にまとったモデルたちが、そのなかを練り歩く。「ファッション イン ジャパン」でも作品が展示される丸龍と山縣のクリエイションの協業が見られる貴重なショーとなった。
丸龍と山縣に、展覧会の担当研究員である本橋弥生を交えて、今回のショーで実現したかったことや、現在のファッションの世界的動向、そして服飾のアーカイヴの重要性を語ってもらった。
「Point of view」をテーマにしたふたりのショー
──お互いに違う視点を持つ丸龍さんと山縣さんのクリエイティブが、高いレベルで邂逅するショーでした。とくに最後、ランプをもったモデルたちが、合掌造りを模したオブジェを練り歩く様子からは、おふたりの「祈り」のようなものを感じました。
丸龍 山縣さんが美術に取り組む前の段階で、すでに僕らのコレクションは完成していましたが、山縣さんも自然な親和性を測りつつ自身の視点から演出の美術をつくりあげてくれました。それぞれの視点が重なりあった、極めて実験的なランウェイ空間になったかと思います。
フィナーレのモデルが全員ランプを持って歩いてくる演出は、山縣さんが考えたプランを自分の頭のなかでもシュミレーションして、より良くなるだろうと思い相談しました。
山縣 リサーチをするなかで、もともと「灯籠」というキーワードが僕のなかに生まれていて、ランプのアイデアを丸龍さんに提案してもらったときに、すぐにピンときました。祈りという部分にもつながるし、最終的に音楽もザ・ビートルズの「across the universe」を提案させてもらったので、流れ星が流れていくようなイメージっていうのも表現できるのかなと思いました。
丸龍 数多くの良い会場がひしめく都内においても、国立新美術館はとくに興味深いロケーションだと思い、ぜひここでやりたいと思いました。
──担当研究員の本橋さんは、ショーを見られてどのような感想をお持ちになりましたか?
本橋 おふたりの世界観が高いレベル表現されていて素晴らしいなと思いましたし、その一瞬立ち現れる世界をライブで体験したので、感動が大きかったです。おふたりはただたんに服をつくって売るっていうところではなくて、深いレベルで「装うとは何か」、「新しいファッションとはどのようにあるべきか」ということを考えていらっしゃいます。それはアートにも通じるところがあると思うんですね。今回のこの日本博のプロジェクトがなければ、おふたりのコラボレーションがいま、このようなかたちで実現されることもなかったと思いますので、ショーを見て、心から今回お願いできてよかったなと思いました。
──丸龍さんの「フミト ガンリュウ」はリアルクローズの印象があり、いっぽう山縣さんの「リトゥンアフターワーズ」はもっとコンセプチュアルなことを提示する印象があるんですが、そのふたりが同じところでショーとして落とし込んだ今回のショーでは、どのような化学反応が生まれましたか?
丸龍 僕と山縣さんはもう10年くらいの付き合いになりますが、たしかにアウトプットに関してはかなり別方向のベクトルを向いています。ですが、根幹となる部分で今回の山縣さんが提示した合掌造りのアートワークであったり、そこから生まれるビジョンであったりと、「地球との向き合い方」のようなコアのレベルでの考え方では密接な共通点があって、僕はそれをリアルなかたちで表現したいと思っています。
「ファッション イン ジャパン」のような多角的な展覧会にも関連するショーでしたが、ひとつのわかりやすい方向性を示すというよりも、文化的なものからカオスなものまでひっくるめたもの、いますぐには理解ができない様なものを提示することが必要でした。山縣さんのやりたいことを素直に突き詰めてもらい、僕らも同じように突き詰める。表面的、短絡的ではないかたち、深層の部分において親和性を持たせた企画にしたいと考えました。
ショーと美術館、ファッションをいかに見せるのか
──ここからはおふたりの作品が展示されている展覧会「ファッション イン ジャパン」の話も交えていきたいと思います。ファッションを扱う展覧会が全国の美術館で盛んに開催されるようになり、ファッションをアーカイヴとして展示することの重要性が認知されるいっぽうで、ランウェイショーでモデルが着て歩く服と、美術館でマネキンに着せて展示する服のあいだには大きな差があるようにも感じられます。改めて、おふたりはランウェイショーという古典的な発表手法の意味をどのようにとらえているか教えてください。
山縣 ランウェイショーという形式は、別の様々な発表形式が提案されていくなかでも、100年以上続いてきています。あのシンプルな形態は、道で見知らぬ人が目の前から歩いてきて、過ぎ去っていく瞬間にはっと気になってしまうような、そんな感覚に近いんじゃないでしょうか。刹那的な感覚と瞬間性のエネルギーが合わさったものだと思うんですよね。美術館という空間(ホワイトキューブ)にそのエネルギーを閉じ込め続けるのは難しいと昔から思っています。ファッションの最大瞬間風速は、つねに変わりゆく世界のなか、誰かがまとうことで発生するものなので。
素晴らしいファッションショーというのは、世界を変えうる、いままでに感じたことのない、何か新鮮な新しい人間像が出てくるかもしれないというドキドキ感を味わうことができます。それはほかの、舞台や映画などの体験とはちょっと違う。世界の人々の装いが変わる瞬間に立ち会う事ができるという点において、本当に素晴らしいとなりえます。
ファッションをアーカイヴとして補完することは本当に重要ですが、そのもっとも古典的な表現媒体であるファッションショーそのものを補完することは困難を極めます。ファッション表現は、ファッションという言葉の定義そのものが、曖昧かつ広義な意味を持っていて、むしろ曖昧であることそのものがファッションにおける本質でもあります。マネキンが着ている服はつねにファッションの一部でしかないということを前提に、多面的に向き合うべきことなのかなと思っていますね。
丸龍 情勢もあり、ランウェイ形式を取らないシーズンが続きましたが、ショーから離れる事で、改めてその合理性を感じました。シンプルに人が歩き、ターンし、去っていく。服は人が着なくても成立する様な、単なる「物体」ではないと考えています。ランウェイではわずか10分程度の限られた時間で、動いたときの美しさや機能性も見せる事が可能で、そこに音や光など、様々な演出を加えた総合的な表現ができるんです。そういった、フィジカルであるが故の合理性と熱量を再認識すると同時に、加速するデジタル表現の未知なる可能性、そしてそこに広がる新たなフロンティアを開拓して行きたいとも思っているので、その時々に相応しい表現を選択していきたいと考えています。
展覧会ではマヌカンが着用するため、プロダクトとしての完成度であったり、スカルプチャーとは異なる服の本質的な側面としての人との調和や動きを見せることはできませんが、静止のたたずまいもまた、服にとって大切な瞬間だと考えています。多様な日本の服装史を、自由に様々な視点から観察し観賞できる、そういった特別な空間になるのではないかと思っています。
──担当研究員の本橋さんは、今回の展示にあたって、洋服の静のかたちを見せるために、どのような試みをされましたか?
本橋 たしかにファッションの展示は、ランウェイショーや実際の街で着ている姿には勝てないので、その本質をどうやって伝えようか、すごく悩みました。ライヴ感では、ショーやストリートにはかないません。ですが、逆に美術館におけるファッション展の役割は、時間を自由に操り、編集できるところだと思っています。ファッションショーは「いまこの瞬間」に注力して洋服を表現していますが、ファッションの展覧会は時間を自由に編集できるんですよね。展覧会では約820点もの作品を展示しますが、時代の空気感だったり、デザイナーが意図したこと、メディアでどのように伝えられたのか、そして街の人がどう受け止めたかということを、それぞれのデザインを整理しながら「時代」として見せられるようにしています。
ファッションにおけるアーカイヴの重要性
──アーカイヴとしてまとまったかたちで日本のファッション史を見られる機会もなかなかないとは思うので、その意味でも多くの若い人に見てもらえたらよいですね。
山縣 最近はメディアがパーソナライズし過ぎていて、時代がどう移り変わって変化してきたのか、歴史の流れが表層的にはちょっとわかりづらくなっています。実際に体験できる展覧会としてきちんと流れを整理することは大事ですよね。
本橋 これまでの日本のファッションは、70年代に高田賢三さんがパリコレでデビューしたことや、80年代に川久保玲さんや山本耀司さんがつくりあげた「黒の衝撃」などから語られる構図が多かったと思います。素晴らしい日本人デザイナーが登場したのは突然変異ではないので、その前の時代に何が起こっていたのかということも含めてきちんと紹介したいと思い、今回の展覧会を企画しました。
日本では、「モボ」や「モガ」など20年代頃から都市で大衆に少しずつ洋装が普及し始め、戦時中に国民服やもんぺを着るようになったことをきっかけに、戦後、一気に洋装化が進みました。やがて洋裁ブームがおこり、50年代にかけて洋装文化が花開きます。こういった日本の洋装をベースとするファッションの流れを、現在活躍する丸龍さんや山縣さんの作品まで一本の線上に並べて歴史を概観してみたい、そしてアーカイヴしたい、という夢が、多くの方々の協力により、かたちになったのが今回の展覧会です。これまで、素晴らしい作品が多く生み出されてきたのにもかかわらず、ファッションは国立の美術館では収集される対象にはなっておらず、個人的にそれはすごく残念な状況だと思うんですね。当館は残念ながら収蔵品を持てませんが、それでも展覧会を開催するなどして、少しでも集めた資料を積み重ねていき、アーカイヴする。30年後、50年後、そして100年後の人たちが、情報にたどり着けるようになると良いなと思っています。
──デザイナーのおふたりは、ファッションのアーカイヴとどのように向き合い、ご自身のクリエイションに取り入れていらっしゃいますか。
山縣 もともと僕はファッションの歴史を調べるのが好きだったので、色々な書籍だったり人から聞いた話などを調べながら、数珠つなぎに年表をつくって理解してきたというところがあります。学生時代、僕はロンドンにいたので、ヴィクトリア&アルバート博物館で服飾の歴史を振り返ることができました。
20世紀のファッションというのは本当に様々なことが試みられてきたわけで、どんなコンセプトも過去には絶対に誰かが近い方法でやっているわけです。例えば今回のショーで発表した、土に服を埋めるというアイデアも、それ単体であれば既にやられているので、それだけの短略的なアイディアでは通用しない。今回は、セルロースを原料とする和紙でできた服を制作しました。それは堆肥としてもとらえることができて、土壌にいる微生物が活性化され植物の栄養素として取り組まれることによって、身体の外から最終的には体内へとつながるというコンセプトです。歴史を理解した上で、現代的にアップデートした思想や手法、システム構築などでその次を提案していくことが大事だと考えています。その点で、デザインする上でも、歴史やアーカイヴに触れる必要はあると思います。
丸龍 僕はつくり手の方々が試してきたことを考えるために、インタビューや文献にはあえて目を通さず、まず純粋に服だけを見て「今回はこういうテーマなのかな」とか「こういった目的でつくられたのだろうか」など、最初に自分なりの推測をするようにしています。咀嚼し熟考した後、デザイナーの思いや意図に目を通すことで「合っていた」であったり「そういう事か」と学ぶ、あるいはまた「こう提案した方が良かったのでは?」と考えます。一方通行ではない相互の関係性のターンがプラスされる、擬似的な対話ともいうべき向き合い方をするようにしています。
額面通りに受け取ることで得られる学びは、生きるうえでとても大切な糧や手がかりになると思っていますが、良い意味で違なる視点で感じながらものごとをとらえることもまた、発見という種になると思っています。
──最後に、展覧会をどのような視点で見てほしいのか、3人のお話をうかがえればと思います。
本橋 これからの社会は、いかに新しいことを発想してかたちにできるかということがますます重要になっていくでしょうし、「歴史」はそれを考える上で重要な素材になると思います。美術館は、創造する類まれな力を持った人がつくった作品を発表し、アーカイヴしていく場なので、同時代を知っている人から若い人まで、想像力の刺激を求めて、ファッションに興味のない人も含め、多くの方に見ていただきたいですね。
また、過去のファッションを見ながら、いまの社会に疑問を持ったり、過去の視点に立つと違う道があったんじゃないかとか、そういうことも考えられるのではないかなと思っています。私たちは洋服を着ることが当たり前と思っていますが、50年前、100年前は洋服が当たり前ではなかったし、何を着るのかということが、国家にとっても、個人にとっても重要な問題であった時代もありました。いまは、服を着ることに無自覚な時代だとは思うので、改めて「なぜ私たちは服を着るのだろう?」とか「私たちはどういう服を着て、どういう生活をして、どういう社会に暮らしたいのか」というところも考えてもらえる機会になると良いなと思います。
山縣 僕はファッションを学ぶ場所として「ここのがっこう」を10年以上主宰してきましたが、ファッションを真面目にアカデミックに考えることが、これまで以上に重要になってきていると思っています。そういう意味では、とくに日本のファッションの歴史は、ファッションが文化的なものとして扱われてこなかった歴史もあるし、教育機関もファッションをカリキュラムに取り入れてこなかった歴史がある。そういう意味ではしっかり学ぶということが、より大切になってくると思いますので、今回の展覧会には大きな意味があると思っています。
丸龍 山縣さんが言われたような視点で見ていただけたらもちろん、理想的だと思います。かたや、難しいことは考えず、純粋にただ楽しんで見るということができるのもファッションの良さ、自由さ、懐の深さだと思っています。歴史ある服や素晴らしいクリエイションに関しては、深堀りしようと思えばいくらでも深く掘れますし、リテラシーがあればなおさらです。でも、そのいっぽうでライトな感覚で楽しむこともできる。ファインアートとはまた違った魅力やクリエイションがそこにあると思っています。