超人は彫刻のモチーフとなりえるか。米村優人
会場に入るとすぐ目に入ってくるのが、米村優人が手がけた金の立体作品だ。昭和の特撮ヒーローを想起させるモチーフの胸像が、木の構造体による什器に設置されている。米村は次のように説明する。
「ギリシャ彫刻や特撮のヒーローなど、人智を超えた存在を『超人像』と呼んでいて、そういう存在を石や粘土という彫刻の素材、ときにはFRPというプラスチック繊維など彫刻に用いられている素材を使用して制作しています。ミケランジェロが神像をつくるときに人間のかたちを用いたり、近代の彫刻家が自分の愛した相手や尊敬する人物をモチーフにしたのと同じように、僕にとっての身近な存在や幼少期に見ていたヒーローなどを制作したら、それは彫刻になりえるのかということを考えて制作しています」。
きっかけとなったのは、素朴な疑問だ。アルベルト・ジャコメッティは、友人である哲学者の矢内原伊作をモデルにデッサンを繰り返し、要素を削ぎ落とした末に矢内原の本質が、人間の本質が立ち上がるのではないかと追求した。矢内原の著書にも残されたそのやりとりを米村は例に挙げる。
「文章にも残されていて、ジャコメッティが何を目指したのかを僕らは認識できるけど、実際は僕らにとって全然知らない人の交友関係に過ぎないわけじゃないですか。それで胸像をつくったりして、その作品を通して人に何かを感じさせられるわけだから、そういうことでいいんじゃないかなと最近思えるようになったんです。無理してコンセプトなどを意図的につくりあげるよりも、自分の私情や経験をもとにしたほうが、自分に合っているんじゃないかなと考えています」。
この金の胸像を組み合わせたインスタレーションは、「アガルマン」というシリーズの一作品だ。ギリシャ語で彫塑を意味する「agarma(アガルマ)」と、人を意味する「man(マン)」を組み合わせた「彫刻の人体像」だ。モチーフは、1970年代にテレビ放送された3人組の戦隊モノ『超神ビビューン』。風を操る超神の胸像の原形を発泡スチロールでつくり、FRPなど複数のメディウムを混ぜ合わせて表面を造形、オブジェクトの軽さと金メッキに塗装した装飾性とのギャップをはらんだ作品に仕上げた。
「父親の影響で見ていた昭和期のヒーローの粗野で単純なディテールを今回は意識したちにしたのですが、それ以外にも、自分の元カノの顔とかをモチーフにしたり、自分の身体をバラバラにしてパーツを立体にしたりもしています。モチーフによって素材や方法は様々です。彫刻のひとつに神像があって。偶像崇拝のために宗教的なコンテクストのもとで制作されるわけですが、自分がリスペクトするものだったり、憧憬をいただいたものをモチーフに制作し、神聖化することも可能なのかというテーマで制作を続けています」。
絵画に言及する絵画の可能性を探る。岡本秀
美術史や絵画の成り立ちなどを主題に平面作品を制作する岡本秀は、近代の日本画家、大橋翠石の絵をテレビで見て、それまで知っていた油彩や水彩とは異なる描写方法に「こんな写実の方法があるんや」と衝撃を受け日本画を専攻した。そして、現在の作品テーマも日本画を専攻したことと深く関わっている。
「大学の日本画専攻では実験的なゼミを選んでいて、『絵画とは何かを考えながら絵を描く』というテーマで制作をしていました。日本画専攻で初めに教わったのが写生だったのですが、写真ではなくあくまでも実物をちゃんと見て、観察をもとに絵を描くことを大事にすることが原則でした。そこが面白いところで、確かに画像を見るのと実物を見るのとでは出てくる色や線が変わってきます。
いっぽうで、画像というのもある意味で実物だと思っています。実物の石を描くのと石の画像を見て描くのとでは違うかもしれないけど、石の画像には石の画像としての実感があるし、例えば『石の写真』としてみれば写真という物体です。それを日本画の文脈で考えたらどういうものが出てくるだろうという関心から、襖絵や画中画に興味をもち、画像と、画像の支持体を同時に描こうと考えるようになりました」。
絵の中に描かれた絵=画中画。その形式での制作を繰り返しながら、美術史家のW. J. T. ミッチェルに見られる「メタピクチャー」の理論にも意識が向かうようになった。「画像についての画像」を考える理論だ。画像が自己言及したり、他の作品を参照したりすることを分析する理論であり、いま岡本は「メタピクチャー」論を絵画として形式化して、画像の歴史から作品を表出できないかを考えている。その背景には、「日本画というジャンルと現代絵画というジャンルが、もっと絵画として同じ課題や疑問を共有する部分があってもいいのではないか」という意識があるのだという。
「例えばアメリカで起こった抽象表現主義という運動がありますけど、あれはまさに『絵についての絵』で、考え方としては、何を抜いてもまだ絵画なのか、何さえ残ってたら良い絵なのかといった引き算の美学に基づき、条件をどんどん引いていく方式で絵画がつくられました。具体的なモチーフがなくても線と色と形さえあれば絵画として成立する、その線や色がなくなっても絵具という物質と平面性さえ残っていれば(良い)絵画と呼べる、というような実験的な制作を通じて、再現の面白さを問うのとは別のやり方で『絵とは何か』を明らかにしようとしてきました。ただ、それを続けるとどんどんストイックになってきて、描くことに制約が増えていきます。現在は(それを前提に)再び何を描けるかという時代になっていると思っています。具象表現がもう一度立ち上がってきているとして、現代の絵画にとってモチーフを扱うとはどういうことなのか、それを日本画の視点から考えていきたいと思っています」。
絵を描くうえで避けて通れない絵画史。東慎也
「油絵具を使用して、主に人間をモチーフに絵画を制作しています。人間の中に潜んでいるいろいろな要素、暴力的なものであったり、和やかな場面であったり、人間が持っている多様な面を自分の経験なども交えながらイメージにして作品をつくっています」。
東慎也のペインティング作品は、色彩をダイナミックなタッチで操り、モチーフとなる人物や生物の気配が画面に漂う様子が特徴的だ。ワクチン接種を連想させる一場面がコミックのひとコマのような描写に凝縮されていたり、燃える体で聖火台に聖火を点火する姿から現代へのアイロニーを感じさせたり、その描写からは社会への批評的な視点や色彩の独自のバランスを感じることができる。
「誰しも加虐性のようなものを持っていますが、実際にはそういうものが表に出ることはあまりないですよね。でも持ってはいる。そういう絶妙なバランスを表したいと思っているので、グロすぎたり過激すぎたりしてもよくないというか、描かれていることは過激でも見え方としてはバカっぽいというか、そういうところを目指しています。
色使いについては、けっこう明るい色、ポップと言われることが多いですけど、僕らが世代的に見てきたものって、アニメだったりゲームだったり、あとは街灯とかイルミネーションの光だったり、派手な色使いをずっと浴びてきたので、そういうものが身体化された結果として、こういう色に現れるのだと思います」。
作品を手がける際には、ドローイングを描き溜めてイメージを生み出したうえで制作に入ることもあるが、絵具を触りながら遊んでいくうちに「自分のなかでバグが生じるように」イメージができてくることもあるという。
「僕が影響を受けているのは、ピエール・ボナールだったり、ムンク、フィリップ・ガストンなどの作家を意識したりします。この人たちも過去に作られた作品にプラスであれマイナスであれ影響を受けて作品を制作していたと思います。そしてその時代や自身のリアリティを描き、過去と現在でキャッチボールするように絵画を発展させてきたと思うんですよ。そういう意味で絵画史は避けて通れなくて、過去の人がこういうことをやっていたから『いまやったらこうやろ』、というように過去を参照しながらも自分たちの世代のリアリティを描いていきたいと思っています」。
そして今回、学生時代からよく知る作家同士3名でのグループ展ということで、岡本と米村の作品とのバランスを意識しつつ、また3人に共通する制作姿勢を1枚のペインティングに込めた。
「3人展ということで、人が3人出てくる絵を描きたいと思って制作しました。設定としては、すごく豪華な石像を盗んでくる3人の窃盗団の絵です。文化的なものを盗むというか、盗むという言葉は悪いですけど、過去の文化から拝借するように過去を参照しながら現代の作品をつくるというのが3人に共通していると思うので、その姿勢を描こうと思いました」。
紫の闇を背景に、お宝を運び出す窃盗団の姿に投影される3人の作家たち。個別の制作活動はもちろんのこと、互いに刺激を与え合い表現を展開する様子を今後も追いかけていきたい。