2021.7.9

「白」の色調、イメージ、質感の幅を多様なメディアで感じる。浜名一憲、尹煕倉(ユン・ヒチャン)インタビュー

京都の艸居アネックスを会場に、「白」と題するグループ展が開催されている。素材も表現方法も異なる8名の作家が手がけた白の作品を展示し、白が空間につくり出す無限性や白の概念にもとづく内面性が提示されている。本展参加作家のうち、浜名一憲と尹煕倉にインタビューを行った。

文=中島良平

「白」展展示風景より
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 壁一面の窓からカーテンを通して自然光が入り込む展示空間。移ろう自然光を受け止めることで、素材によって異なる表情を見せ、陰影によっても異なるトーンを生み出す白という色の幅広さを感じることができる。

 参加作家は8名。信楽の自然土を使い、「彫刻」として手がけた壺が展覧会メインヴィジュアルにも採用されている浜名一憲。空間の中央に2点の壺が置かれ、オーガニックな姿で存在感を示す。奥の壁面にかかる絵画作品は、尹煕倉の《何か A-15》。陶による立体作家としてキャリアをスタートした尹が、自作の陶作品を粉砕して絵具をつくり、「存在感の感触」を描いた抽象画だ。

 白の釉薬の下に葉脈の流れを描くことで、生命の力強さや尊さを表現する稲葉周子は、《葉器》と題する形状の異なる5点を出品。ニューヨークを拠点に、観念や思想、哲学などが一切入り込まない純粋な芸術としてミニマリスティックな表現を探究する桑山忠明は、鳥の子紙を板に巻きつけたアクリルペインティングと、メタリックペインティングを展示する。

「白」展展示風景より

 そして、李禹煥、サラ・フリン、竹内絋三、出羽絵理という4名の作家による磁器作品。光の透過性、硬質、高い形状記憶という性質をもち、乾燥と焼成を経て有機的に変化する磁土を4名それぞれが独自の方法で扱う。李禹煥はフランスのセーブルにて、白の度合いが強いフランス産の磁土を用い、火の力を表面の粗い質感に閉じ込めた2点を出品。アイルランドを拠点とするサラ・フリンは、磁器のフォルムに最適な釉薬を探索すると同時に、上質の釉薬を用いるべきフォルムを追求するという双方向の視点で制作を続ける。今回は4点の花器を展示。竹内絋三は構築と破壊の連続から生まれる美を、磁器に木や漆、ガラスを組み合わせた作品に表現する。出羽絵理が出展する《Forest1》から《Forest4》の4点は、磁器の光の透過性を活用したシャープなラインが印象的だ。

「白」展展示風景より、画面右の4点がサラ・フリン、奥の絵画2点が桑山忠明による
「白」展展示風景より、左から、竹内絋三《Modern Remains Dusk》(2021)、竹内絋三《Modern Remains Meadow》(2021)

浜名一憲:均一な白ではなく、情報量のレイヤーがある白の表現

 農業高校を卒業後にカリフォルニアに留学し、東京でスニーカーショップや飲食店を経営した経験をもつ浜名一憲。やがて千葉の九十九里に拠点を移し、イワシ漁が盛んであるのに千葉産のアンチョビがないことを不思議に思い、イワシ漁船で働きながらアンチョビづくりを研究して製造販売をするまでになった。現在もアンチョビづくりを続けながら、古道具が好きで集め続けてきた経緯から、自分でもつくってみようと10年ほど前に公民館の陶芸教室に通うところから作陶をスタートした。

 「人間が道具を使うようになったのは木の枝や石で叩くことに始まって、その次に、コンテナ的なカゴや壺など中に何かを入れるものをつくりました。とくに火を扱うようになってから、もっとも古くつくり始めた道具として世界的に残っているのが壺です。もともとは植物の種だとか水だとかを入れていたものですが、いまはガラスやプラスチックも出てきて壺は役割がなくなっています。自分がもともと古いものが好きなのもありますが、抽象的な見立てとして、中が見えずに何かを内包しているところが人間自身に似ていると思って魅力を感じています。そうして見ているとだんだんと彫刻のようにも思えてきて、古い壺を集めるようになりました」。

 江戸以降の華美な表現には惹かれず、鎌倉時代の備前の焼き物が浜名の感覚にすんなりと入ってくることに気がついた。作陶者の強いエゴが伝わってくる類の壺ではない。作陶者の自己表現がおそらく時間が経つことで風化し、様々な人の手が触れてきた「壮大な人類史を感じ、そこに共感を覚える」のだという。そして、観念を表現する彫刻をつくるような感覚で、壺を制作するようになった。

 「作陶を始めた10年ほど前に僕が一番カッコいいと思っていたのが、日本民藝館に展示されている17世紀朝鮮半島の白磁壺です。すごく人間らしいというか、雨漏りや傷があるところに壮大な人類史を感じるし、その長い時間軸に感動を覚えます。14世紀の中国の白磁や青磁はもっと古いものですが、完璧すぎて人間らしさが見えないから良いと思えない。その17世紀の白磁壺や鎌倉時代の備前焼などに共感した想いを、どうやったら表現できるか。そこにトライするために、壺づくりを始めたのです」。

手前の2点の壺が浜名一憲の作品。いずれも《無題》(2020)

  均質な白を表現したい訳ではない。400年経ったときには無数の傷がつき、光が乱反射し、光とくすみが同居する。そんなテクスチャーを陶で表現しよう。均質でツルッとした白磁の白ではなく、多くの情報量を含む白の壺をつくろうと考えた。

 「傷があって、日焼けしていて、雨漏りもあって、鉄分が浮かび上がってきた汚れのような部分もあるような、情報量のレイヤーがある白をつくりたいと思いました。そのために、まず土を何種類も使っています。山から原土を掘ってきましたが、それだけでは形成しにくいので、精製された粘土を、それも混じり気のないピュアな粘土をあわせてかたちにしています。色も、白や鉄分を加えて、マテリアルも色彩もレイヤーをつくりました」。

 浜名にとってサイズも重要だ。土と水をこねあげ、火の力によってかたちやテクスチャーを完成させる作陶は、身体性と自然の力に裏付けられているからだ。

 「とにかく大きなものをつくりたいと思っていました。両手を広げてつかめるような感じです。僕は巨木を見にいくのが好きなのですが、森で巨木を抱き抱える感覚がすごく大事だと思っています。大脳だけではなく、手足から何から身体を使った経験に感情が宿るはずなので、両手いっぱいのサイズの壺を抱えることで、自分と自然が一体化したような感覚を呼び起こせるのではないかという思いがあります」。

 壮大な人類史と未来という縦軸と、恵みを与えてくれる自然の広がりや隣人や友人へのシンパシーという現在の横軸。自らの身体性をもって縦軸と横軸に接続し、アンチョビづくりや農業なども並列で行いながら、浜名一憲は作陶を続ける。

「白」展展示風景より、手前が李禹煥《Terre de porcelaine no.II》(2016)、奥が浜名一憲 《無題》(2020)

尹煕倉:色の皮膜を乗せるようにして抽象画を描く

 焼き物でシンプルな矩形の立体をつくり、それをいろいろな場所に置くことで、置かれた空間や周囲の環境との関係を考察する。「存在」をテーマに、尹煕倉はそうした動機で立体作品の制作を20年以上にわたって続けて来た。そして2000年ごろに、絵を描いてみようという気持ちが生まれた。そこで試したのが、自作の矩形の陶作品を粉にした陶粉で絵具をつくり、水(画用液)で溶いて描く手法だ。

 「存在するとはどういうことだろう、ということを考えて立体を制作していたので、立体を通してとらえようとしてきた存在感の感触を絵に表現することができないだろうか、と考えたのが始まりです。自分がよく知っている材料で絵を描きたいという思いもあったので、立体作品の制作に使っていた陶芸用粘土を焼いた色で存在感の感触を絵にする方法が生まれました」。

 「白」展に展示されている「何か」というシリーズは、そうして始まった。陶土を焼成して、それを細かく砕いて粉末にし、絵具をつくる作業には時間がかかる。そのプロセスで頭に浮かぶイメージがある。陶粉を水に溶き、パネルの上で筆を滑らせるように広げて描く作業は、陶粉と水の変化を見ながらスピーディーに手を動かさないといけない。

「白」展展示風景より、手前が李禹煥《Terre de porcelaine no.V》(2016)、奥が尹煕倉《何かA-15》(2012)

 「陶粉と水による現象を画面に取り入れるだけでは作品としての強度がないと思っています。いっぽうで、頭のなかにあるイメージというのは、正確な画像ではなくじつは曖昧なもので、たいていの場合は感触という程度のものだと思います。だから手を動かして目に見えるかたちにして初めて確かめられると私は思っています。なので、描き始める前には、落書きや素描、イメージスケッチや下絵といった繰り返しが必要です。そうやって描くときには事前に段取りを組んで描き始めるのですが、いざ手を動かしていると、陶粉と水の現象、つまり材料の事情で描くべきものが初めの予定からズレることがあります。でもそれを受け入れることも大事だと思っています」。

 そうして「何か」の描き方が成立してきたときに、もうひとつのテーマが生まれた。展示や制作の機会でいろいろな場所を訪れたときに、気に入った場所ではその土地に固有の素材を使って自分の表現をしたいと考えたのだ。制作を通して場所とどのように関われるか考えてたどり着いたのが、その場所の川の砂を焼成し、陶粉をつくるように砕いて顔料にして絵具にして絵を描くという方法だった。その土地の固有の材料とは何かと10年ぐらいアイデアを温め続け、あるときテレビに映るテムズ川の映像を見て、この方法を具体的に思いついたという。

 「街から川辺に下りていくシーンが映されたのですが、テムズ川では川辺にところどころ砂が見えています。上流域の全てから流れてきた砂ですから、もともとロンドンの砂ではありません。しかし文化やお金、情報や人などが遠くから運ばれて来て集まってロンドンという街が生まれて、またどこかに流れていってしまうというイメージがその瞬間に立ち上がりました。ロンドンに固有の素材はテムズ川の砂だと思えたのです。それから「何か」と近いアプローチ技法で、土地との関わりを表現する「サンドリバー(砂の流れ)」というシリーズが生まれました」。

 ある土地の川で砂を集め、それを焼成して絵具をつくる「サンドリバー」のシリーズは、「旅の画家」として描いている感覚があるという。旅先の川の砂を集めながらその土地を体に取り入れ、風景を再現する訳ではないが、その土地を祝福するような気持ちで、旅先で川の砂を集めながらその土地の風景や風土を体に取り入れ、その感触を描こうというアプローチだ。いっぽうの「何か」では、立体作品のコンセプトに基づいて存在感の感触を視覚化する取り組みだった。そして、二つの制作を通じて尹は色への新たな気づきを得たという。

「白」展展示風景より

 「色を体系化するシステムを習うと色彩を操作する方法をわかりやすく学ぶことができます。そしてカラーチャートやパソコンの画面で色の成り立ちを見てシステムを理解することは、色を概念として受け止める必要があります。ところが、実際の世界で私たちが色を見て感じとるときには、色という概念ではなく、色のついたものの表面を見ているという当たり前のことを意識しなくなりがちです。色を扱うのは、つまりものを扱うということで、色と手触りを持つものの組み合わせ方や操作方法が文化の蓄積だと思います」。

 「私の作品の表面は、焼成した砂をすりつぶしたベビーパウダーから粒胡椒くらいのサイズの粒子でできていて、画面の色はその微細な粒子の色の集まりです。その艶のない画面は、自然光で眺めていると、屋外の光の移ろいをふわっと受け止めて、描かれたかたちだけでなく絵自体の存在感も刻々と移ろうようです。描かれた図像を見ているのか、壁にかけられた絵画という物を見ているのか?もはやどちらでも構いませんが」。

 「白」展で展示されている、8名の作家による素材も表情も異なる白の作品。多様な白が反応し合い、白の共鳴が自然光に包まれて展示空間を満たしている。