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2022.8.9

日本とアメリカをつなげ、核問題を描き続けるアーティスト。蔦谷楽インタビュー

ニューヨークを拠点に、日米両国で核問題のリサーチと被爆者インタビューを続けながら制作を続ける蔦谷楽。日本で初となる個展「ワープドライブ」が開催中の原爆の図 丸木美術館で話を聞いた。

聞き手・文・撮影=中島良平

蔦谷楽。作品は左から《The Loyalty Hearing》(2019)、《The Protectors》(2019)
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──核兵器の問題を日米両方の視点からリサーチし、複数の作品を手がけていますが、社会的な問題を作品に表現するようになった経緯をお聞かせください。

 東京造形大学の絵画科に入り、2年生のときに抽象画を描いていたのですが、ちょうど阪神大震災と東京の地下鉄サリン事件が起きまして、私の人生において初めて一気に大勢の死者が出る震災と事件だったので、とてもショックを受けました。アーティストは社会問題についての対話が生まれるような作品をつくるべきではないか、と考えるきっかけになりました。

──大学時代から社会問題を題材に絵を描き始めたのですね。

 当時は、絵画からいったん離れ、物語を構成するためにテキスト、音、画像などを複合的に扱いたいと思い、レディメイドのオブジェなどを使ったインスタレーションもつくるようになりました。それから、当時在籍した現代美術センターCCA北九州スタジオプログラムで出会った同年代のプログラムレジデンスアーティストと、gansomaedaというユニットをつくり、2005年の横浜トリエンナーレにも参加したのですが、翌年に私は渡米しました。アメリカで驚いたのは、美術館で、絵画の前で皆さんが楽しそうにディスカッションしているんですね。絵画にも会話を生む力があるのかと驚き、それをきっかけに再び絵画に戻ってきました。映像や彫刻などのメディアと同じところに、絵画というものが引き上がってきたような感覚です。

蔦谷楽

──アメリカの美術館で対話を引き出せる絵の力を感じ、マンガのようにストーリーと結びついた絵の表現を目指すようになったのでしょうか。

 美術のなかでも、見るのが一番好きなのは絵画なんですね。自分が描くとなると、やはり小さい頃から描いていたマンガというメディアの、言葉と物語があってモノクロで描かれる絵をずっと練習してきたので、その描き方で人間のかたちや犬を表現するのはすごく得意でした。木炭のデッサンにも活かされて、それは日本のマンガの底力のように思っています。

──そこからどのような経緯で、原子爆弾などの核兵器を主題に選ぶようになったのでしょうか。

 まず2011年に東北で震災が起こり、福島で原発事故があったときに、ちょうど同時期に自分の人生にも破綻が起きて日本に戻ってきました。私にもできることはないだろうかと思いながらも、自分の心身も疲れていて動くことができず、実家で1日1枚シリーズを始めました。1日1枚絵を描き、そのときに思い浮かんだ続きは絶対に描かず、翌日に新たに出たアイデアで次の1枚を描く、というルールで描いて毎日SNSにアップしていきました。内容は、津波で家族や家を失った人たちの悲しみや戸惑い、苦難を見ながら、自分の人生の破綻について考えるものでした。友だちが見てくれたり、マンガの無料サイトで公開して反応があったりしたので、自分にも毎日少しずつエネルギーが湧いてくるのを感じました。

 それから1年後に決心してニューヨークに戻ったのですが、2015年に父が、復興道路の現場監督として福島入りすることになったんですね。父は元土木技術者ですが、父のように引退した多くの年配の方々が現場に呼ばれたんです。父の健康状態が心配だったので、当時電話でもよく話していました。そうすると、フレコンバッグが山積みで黒いピラミッドと呼ばれてるよとか、バッグを突き破って草や根が伸びているよとか、イノシシがしょっちゅう走り回ってるよとか、それを聞いて全然状況は良くなっていないことに気づき、当時の恐怖が蘇ってきて「たった4年で私は忘れていたな」と自分に驚きました。人間は怖いこと、悲しいことも忘れることができるんだと。それで福島の作品を2015年にリサーチベースでつくり始めました。福島に残された7匹の家畜が、どうやって福島を脱出するかという話し合いをしている作品です。

展示風景より

──幼少期に動物とマンガが好きだった蔦谷さんらしい作風ですが、現在展示されている作品でも登場人物が動物として描かれていますね。