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動画「コロンブス」の炎上から考える、「知のめぐり」の在り方

ロックバンド「Mrs. GREEN APPLE(ミセス・グリーン・アップル)」の楽曲「コロンブス」のミュージックビデオが炎上してから約2ヶ月。武蔵野美術大学教授で憲法研究者の志田陽子が、この炎上騒動を契機に今後のアーティストたちの表現活動において生かされるべきものを考察する。

文=志田陽子

(C)Unsplush

「コロンブス」炎上

 6月、ロックバンド「Mrs. GREEN APPLE(ミセス・グリーン・アップル)」の楽曲「コロンブス」のミュージックビデオに「歴史や文化的な背景への理解に欠ける表現」があったとして、レコード会社のユニバーサルミュージックがこのビデオ動画の公開を停止した。

 問題となった映像では、コロンブス、ナポレオン、ベートーベンに扮装したメンバーが「類人猿」の家を訪れ、ホームパーティーを開く。途中、類人猿に人力車を引かせたり、乗馬や音楽を教えたりするシーンがある。

 この動画がなぜ問題なのかについては、この数日の間に多くの識者、ジャーナリストが解説してきた。筆者もYahoo!上で以下の論説を投稿した。経緯と「なぜ社会的にアウトなのか」については、こちらを参照してほしい。

多文化社会における「ポリティカル・コレクトネス」への覚悟

 「ポリティカル・コレクトネス」の「ポリティカル」は「政治的」という意味である。これは、平等社会を構築するという必須の政治課題に照らしてセーフ(correct)かアウト(incorrect)か、という意味合いを持つ言葉である。この意味に照らして、問題のビデオは「アウト」な中核事例と言える。

 とはいえ、このビデオ作品は「法的にアウト」なものではない。こうした問題は、アーティストがこれを受け止めて、今後の活動によって挽回していくことが可能なものである。こうした表現については法律による規制はなく、「表現の自由」の中で批判や指摘を受けることで「気づき」が起きることが期待されている。

 むしろ危惧すべきなのは、今回のようなことをきっかけに、クリエーターたちが論争のある歴史的テーマを忌避し、タブー化してしまう方向に向かうことである。

 どの国にも、後の歴史に大きな影響を与えた人物や出来事について、複数の観点、複数の理解がある。多文化主義的な思考が広まった現代では、アートや学術にたずさわる者は、いつでもこの衝突に巻き込まれる覚悟をしなくてはならない。

 かといって、炎上する可能性のある社会問題、歴史問題のすべてをあらかじめ知っていなくては表現活動にたずさわれないというのは、無理がある。筆者が務める美術大学の授業でも、学生の関心はこの点に集まった。

 たしかに、「炎上したらアウトだから、絶対に炎上しない題材を探す」というマインドに陥ると、表現は型にはまり、萎縮していく。対話や相互刺激によってらせん状に上昇していくべき知識とアートの連携が、逆に「負のスパイラル」に陥ってしまうのである。実際に、「あいちトリエンナーレ2019」などで起きた一連の「表現の不自由展」妨害事件や、その影響によって多くの自治体イベントで萎縮が起きたことは、記憶に新しい。私たちがとるべき方向は、その方向ではなく、歴史の中の負の側面も見据えながら、ときに「不適切」の指摘を受けて戸惑い試行錯誤をしながら、弁証法的なキャッチボールを重ねながら、ともに進んでいくことだろう。それが文化・芸術を豊かにする方向であり、「表現の自由」を守る方向である。

「表現の自由」における自由と責任のバランス

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