2016.9.1

友達アートの射程
じゃぽにか論①

近年、ネットを中心に目にする機会の増えてきた「友達アート」という言葉。「地域アート」批判でアートシーンに一石を投じた評論家・藤田直哉が、「炎上アート集団」じゃぽにかの現在進行形の活動を通して、同時代美術における「友達アート」の可能性をつかみ出す論考。全5回にわたって特別掲載する。

文=藤田直哉

じゃぽにか個展「普通のトモダチに戻りたい」展(2015年、Art Center Ongoing、東京)より 撮影=ケロッピー前田
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1. 関係性の時代の芸術──「地域アート」と「友達アート」

「友達アート」なる概念が、アート界の一部で浮上してきている。

 正直言って、この言葉を初めて聞いたときには「胡散臭い」と思ったものだが、新しいものを見た瞬間にネガティブな反応をしてしまうのは反射的な行為に過ぎないと思いなおし、この概念のことを本気で考えてみることにした。その言葉のマイナス面、それから、提示している人たちや使用しているアーティストたちが示そうとしているプラス面、言語化されてはいないがそう解釈できる可能性などを、本論は検討しようとするものである。

 まずは、「友達アート」という概念がどのように使われてきたのかの実例の確認から行う。

 2016年1月に「奥村直樹ノ友達展」(DESK/okumura)が開催された。奥村直樹が、「友達」を100人以上集めて行った展示である。

2016年1月に開催された「奥村直樹ノ友達展」(DESK/okumura、東京)の様子 撮影=花房太一

 この展示を紹介するマイナビニュースの記事「東京都・東日本橋で、100人以上の若手アーティストの"友達"の作品が集結するアート展」を参照してみよう。この記事では展覧会自体が「現代アートの最新トレンド『友達』をテーマにした美術展」と紹介され、以下のように論述される。

近年、現代アートシーンでは、全国各地で芸術祭が開催されており、美術館の外へと飛び出すことで、従来の作品と鑑賞者という「関係性」だけでなく、地域との連帯を含めた「大きい関係性」で美術を捉える動きがひとつの主流として定着している。一方、近年の目立った動向として、アーティストランスペースやオルタナティブスペースと呼ばれる若手アーティストが自主運営する展示スペースが増加し、2016年に入ってからインターネット上では「友達」というキーワードに端を発して、より身近な関わりに着目した「小さい関係性」で美術を捉えようとする議論が活発に行われており、同展はその潮流を反映したものになっているということだ。
http://news.mynavi.jp/news/2016/01/22/381/

 筆者はこれまで、「関係性の美学」を主題にした「地域アート」論を執筆し、編著『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)を刊行した。その視点から見ると、この「友達」というコンセプトは、「関係性の美学」(ニコラ・ブリオー)やそれに対する批判である「敵対性の美学」(クレア・ビショップ)などと関連の深そうな主題であるのだろう、と判断し、興味を持った。

 「関係性の美学」は、フランスの理論家・キュレーター︎︎のニコラ・ブリオーが提唱した美学であり、主にリレーショナル・アートなどに使われる言葉である。『人工地獄』(大森俊克訳)の著者クレア・ビショップは、「関係性と敵対性の美学」の中で、「マイクロ・ユートピア」を志向していると批判した。筆者は、日本の地域アートの中で「関係性の美学」が言及されることが多いことに注目し、その「マイクロ・ユートピア」性が、日本的な「和」として翻訳・解釈されているのではないかという仮説を提示してきた。そして問題点として、そこでは「内輪」の肯定に堕する傾向があることを指摘した。一般論として、外部の審級を失った空間での創作は、クオリティが下がる傾向があるからだ(秘教的な共同体が先鋭的で比類のない創作物を生むこともあるが、そこでは神や超越的な何かが外部の審級として機能している)。

 「大きい関係性」とは、なんのことだろうか。「全国各地で芸術祭が開催され」「地域との連帯」と書いていることから、ぼくが「地域アート」と呼んでいるもののことを指しているのだろうと推測できる。あるいは、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と呼ばれる、社会に直接介入し、物質的な造形物ではなく、コミュニケーションやコミュニティを造型するタイプの作品のことを指すだろう。

 この「コミュニケーション・コミュニティの造型」に価値の中心を置く潮流は、美術のみならず、デザインの領域では山崎亮が主導する「コミュニティ・デザイン」が存在する(山崎亮『コミュティデザイン』参照)。建築の分野で言えば五十嵐太郎が「リレーショナル・アーキテクチャー」と名づけた潮流に相当するだろう(金沢21世紀美術館で開催された展示をもとにした、五十嵐太郎・山崎亮編『3・11以後の建築』、および『美術手帖』2015年1月号特集「建てない建築家と繋ぎ直す未来」参照)。人間関係、コミュニティ、コミュニケーションをデザイン・設計することに価値を見出す、領域横断的な新しい動向が起こっている。おそらく、「大きい関係性」とはこれらの動向全体のことを指していると推測することができる。

 もういっぽうで、「友達」とは「小さい関係性」で「美術を捉えようとする」際のキーワードであるという。それは「アーティストランスペースやオルタナティブスペース」「アーティストが自主運営する展示スペース」で行われているらしい。

 おそらく、両者とも「関係性の時代」とも言うべき美学のパラダイムに属しているが、「友達アート」は、その関係性の小ささを新しさとして提示しようとしているようである。そこまでは、おそらくは解釈に間違いがないだろう。

 ひとまずまとめると、関係性の時代の芸術において「大きい関係性」を扱う傾向を持っているのが「地域アート」であり、「小さな関係性」を扱うのが「友達アート」であるとここで仮に定義することにしよう。

 ここからは、その芸術的価値の評価に移っていくことになる。前掲記事で引用されている奥村の発言を、まずはその手がかりにしよう。

『「友達展」ってだいたい内輪ノリでつまんなくて嫌いだけどDESK/okumuraやってたらかっこいい友達がいっぱいできちゃったから、満を持して「友達展」やります。奥村直樹を友達だと思う人はみんな何かしらの好きな方法で展示に参加してもらいます。』(下線は筆者)

 ここで注目するべきは2点ある。「友達」と銘打ってはいるが、日常言語で想像されるような「友達」とは異なったものとしてそれは提示されているらしいことである。「内輪」が「つまんなくて嫌い」であると明言されていることから判断して、奥村はこの展示において、別種の「友達」の関係性を提示しようとしていることがわかる。そして「かっこいい友達」という発言からは、その人間それ自体と関係性に審美的な判断を持ち込んでいることがわかる。

 ここで奥村の想定する「友達」が、日常言語における「友達」と異なっているのは、(その告知をあらかじめ知っていた者に限定されるとはいえ)、それがほぼオープンな状態であるという点である。知らない人でも「友達だと思う人」は参加できるということは、勝手に友達だと思い込んで参加する人間の出現可能性を排除していない。これは明らかに、通常の「友達」とは異なる。むしろ、奥村はここでこれまでのよくある「友達アート」における「友達」概念を改変することをこそ行おうとしているようだ。

「内輪ノリ」批判と「かっこいい友達がいっぱいできちゃった」という発言からは、「内輪=マイクロ・ユートピア」にならないような「友達」関係の再構築が、審美的に行われていることが推測できる。「関係性」のあり方時代に、かっこよさ、つまり「美的な質」があるという判断がこの発言の背景にあるものと推察できる。

 残念ながら、ぼくはこの展示を観る機会を逃してしまったので、具体的な展示に対する論述はできない。ここでは、あくまで奥村の発言から、現代の「友達アート」のあり方についての考察を行いえたのみである。

じゃぽにか個展「普通のトモダチに戻りたい」展(2015年、Art Center Ongoing、東京)より 撮影=ケロッピー前田

 次に、また別の「友達アート」も検討することにしたい。「奥村直樹ノ友達展」に参加したアーティストであるじゃぽにかが、2015年7月に個展「普通のトモダチに戻りたい」(Art Center Ongoing、東京)を開催した。ぼくはそれを鑑賞し、トークのゲストとしても参加し、そこで何がしか感じるものがあった。

 未だ、言語化・結晶化されていない「友達アート」なるものの片鱗に、ほんの少しだけ触れた記憶がぼくにはある。ここから先は、じゃぽにかの展示・ステートメント・論考などを参照しながら、考察を進めていく。(第2回に続く)

PROFILE

ふじた・なおや 評論家。1983年北海道生まれ。SFジャンルを中心に、文芸、映画、アートなど幅広く評する。著書に『虚構内存在−筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)。編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)。共著に笠井潔との対談集『文化亡国論』(響文社)など。