5. 友達論的転回
これは、たぶんじゃぽにか本人がTwitterで呟いていた内容だと記憶しているが、美術史全体を「友達」の関係性によって産出されたものと看做し、美術史全体を再解釈するという壮大なプロジェクトすらここからは夢想される。
たしかに、ピカソ、ゴッホ、ルノワールら画家たちがモンマルトルに集まって交流したり画材を安く調達したりしており、そのことの「関係性」が作品や創造性に様々に影響を与えたであろうことは、想像に難くない。専門的な研究において、誰と誰がどこでどう交流し、作品に影響を与えたのかなどを丹念にたどるものもある。
ぼく自身、現在、かつて「田端文士芸術家村」と呼ばれた場所にたまたま住んでおり、原稿が煮詰まったときなどにほっつき歩いていると、かつての文士・芸術家たちの住居の跡などが看板で示されているのを目にする機会が多い。その結果、ぼくの中に「お前ら結局友達じゃねーか」「近所じゃねーか」という思いが芽生えてくるようになってきた。残された作品や活字だけではわからないが、たとえば相互に批評し合っているその文章の背後に、「友達」「ご近所さん」が透けて見えるようになってきた。
「友達アート」がもっともラディカルに機能する場合、「アート」というものがそもそも内輪のコンテクストを共有する「友達」のものであり、創造性はそこから生まれるのだと開き直る方向性は、たしかにありうる。芸術の場合、「特殊性」や「個別性」こそが、「一般性」や「普遍性」に繋がるという通常の論理とは異なる論理が使われることがあるが、そんな論理も共有している「友達」同士の内輪の価値観でしかない、とまで言い切ってしまう(のがいいのやらどうなのやらわからないが、ここでは可能性をあくまでシミュレーションとして展開しているだけなので、判断は保留する)。
このように、美術史や、価値判断の基準を、「友達」概念によりひっくり返すことで「友達アート」の真のラディカルさの牙が剥き出しになるだろう。
過去の美術史も「友達」同士で決めただけのものである。画家や批評家や学者たちも、コレクターや学芸員も友達である。美術が好きな人はだいたい友達。西洋美術史も、権威も、価値観も、制度も、「友達」の内輪のものでしかない、という「友達論的転回」を起こしてしまえば、それは批判としても、皮肉としても、ラディカルである。同時に、それは新しい芸術のビジョンを「未来」に垣間見させると同時に、「過去」の芸術像すら書き換える恐ろしい試みである。
友達論的転回を行うときの障壁となるのは、友達だから褒めていたとは思えないような傑作が現にあるという難問にどう答えるのかになるが、「それを傑作であると感じる感性・認識の体制になっているのは、あなたも既に友達だからだ」と答えるという道がありうる。では全人類が普遍的に好むような美しいものがもし仮にあったとするとどうなるかと問われれば、「人類みな友達」であると答えるべきなのである。
さらにラディカルに「友達アート」が「アート」の世界をオキュパイし、侵食していく未来を想像してみよう。
西洋を中心とした「アートワールド」が、多文化主義などの影響で複数化し、「アートワールズ」になっているとは現状への指摘としてよく言われることであるが、これを徹底するのである。「友達アート」とは、「友達の数だけアートワールズがある」という、アートワールズの複数化の進行が論理的に引き起こす極限的に内輪的な芸術世界が生み出される狼煙(のろし)である。
そこでは、美術史も外部も他者も批評も理念も何も必要がない。「内輪」の「友達」の中で価値基準もつくってよいし、美学もつくってよい。それこそが、政治的に正しい、多様な価値観を認める、人に優しい、序列をつけない、新自由主義に抗う、公平で平等なアートな世界だ!
繰り返すように、「友達アート」は、たんなる自堕落な自己肯定に陥る可能性がある。そのような「自堕落な自己肯定」こそが新しい芸術的価値のパラダイムになる時代が到来する可能性を想像するのは楽しいが、その世界は、卓越性や差異をむしろ「生み出さない」傾向をおそらく持つだろう。
全国各地にある小説同人誌、絵画の発表会などを見ればそれは明らかである。よく言われることだが、美術史を学び、評価軸などを学ぶことによって、「オリジナリティ」は初めて生まれるというのは、学ばなければ、無意識のうちに支配的なイメージとなっている既存の何かの模倣を行ってしまいがちであるからだ。ぼくたちは、まったく情報がない世界に生きているわけではない。何かをつくり出せと言われたとき、まったくの空白からそれを生み出すというよりは、記憶の中にあるそれらを参照して模倣してしまうことが起こりがちなのだ。だから似たり寄ったりで退屈なものになる。そしてそれを評価する基準も既に記憶の中にあるものを用いるだけであるから、自閉的で内閉的で自足した空間ができあがる。
「友達アート」とは、このような状況への介入でなければならないし、実際、そのような介入の意思は明確に示されている。少なくとも「友達アート」を展開している、奥村直樹とじゃぽにかの二人(2グループ?)においては、そのような隘路を想定しながら回避する狭い道を探る努力が戦略的に行われている。
じゃぽにかの場合は、このような「アートワールズ」が「友達」レベルまでミクロ化しつつも、それが完全に内輪化しないバランスを取るべきであるという戦略を表明するために、「人々のモデルとなるような特殊なケース」を打ち出している。
「特殊なケース」かつ「人々のモデルとなる」というのは、端的に両立困難である。仮にじゃぽにかがその「ケース」であると考えた場合、芸術系の大学に行き博士号を取得しているメンバーがいたり、海外に留学していたりするという条件が特殊であり、なかなか他のグループが達成することが難しいのも確かだろう(彼らが日本国内における正統的な美術教育を受けたことによって、たんなる内輪で自堕落な組織になることが食い止められていることは否定できないだろう)。その意味で、自分たちが、簡単に模倣できるようなロールモデルにはなれないということもわかっているはずである。
だが、prefigureとは、簡単に模倣できないような特殊な一瞬であっても、それが存在できたということが、他の人々に波及し、勇気を与え、励ますところに意味がある。彼ら自身の、特殊性は、「普遍化」されることはないが、「波及」はしうる。そのような「実験」として、じゃぽにかというプロジェクトは理解されるべきだろう。
その実験の「モデル」を引き受けるというのは、大変なことである。なにしろ、生きている人間たちであり、友達同士の関係性がどのように変容するのかなど、未来にわたって見通すことは困難だからだ。しかし、芸術を通じて生み出された(友達同士の)関係性が、リアルタイムで様々に変化していき、その関係性の変動自体の中から作品を創造し、その創造や展示のプロセスを通じて改めて友達同士の関係性が再編成されていく。それを、SNS上の仮想人格や、芸術というフィルターを通じて「見世物に仕立て上げていく」この循環がどこに行き着くのか。それは誰にもわからない。
だが、少なくとも、このようには言えるのではないか。関係性の時代において、このような実験を行っている「彼ら自身の(仮想化された=お客さんに見せるようにした)生」そのものの関係性のありようがどうなっていくのかに、おそらく、鑑賞者たちは、期待の夢を見ると同時に、リアルタイムに目にする崩壊の危機のスリリングさを──自分たちにひきつけながら──楽しんでいるのであるである。そのようにつくられ、見られる芸術の新しい時代に必然的に生じうる芸術の形態が「友達アート」なのではないか、と。(了)
PROFILE
ふじた・なおや 評論家。1983年北海道生まれ。SFジャンルを中心に、文芸、映画、アートなど幅広く評する。著書に『虚構内存在−筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)。編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)。共著に笠井潔との対談集『文化亡国論』(響文社)など。