3. 「友達アートの存在領域」考
しかし、身近なところでばかりやって、それは馴れ合いではないのか。内輪ウケになって終わるのではないだろうか。そんな危惧も存在する。
そのような批判に答える意図を持って、じゃぽにかは「友達アート」の可能性を提示するための論考を発表している。「じゃぽにか論考 I.2 ― 友達アートの存在領域」と呼ばれる文章が、2016年3月に発表されたのだ。ここからは、この論考の内容を手がかりに、論述を進めてみよう。
この文章には、こう書いてある。
「友達アート」とは、ひらたく言えば、友達とつくるアートのことである。近年、次々と誕生しているアーティストグループのなかにも、友達アートは潜在している。もう少し厳密に言えば、共同制作の際に友達の関係性が芸術の技術に先立って存在し、その友達性が作品に濃密に反映されるようなアートである。(...)その集団の表現において、単なる馴れ合いや閉鎖的な雰囲気を超えて友達特異性(フレンド・スペシフィシティ)を発揮し、人々のモデルとなるような特殊なケースであるとき、それを友達アートと呼びうるのだ」。(強調[下線]原文)http://tocana.jp/2016/03/post_9310.html
この短い文章の中にも様々な論点が数多く含まれている。「友達特異性(フレンド・スペシフィシティ)」という概念の創造なども興味深い。それらの論点については後述するとして、まずは、彼らが「集団の表現」「人々のモデル」という言葉を使っていることに注目したい。
彼らのSNS上の振る舞いなどから判断するに、コミュニティやコミュニケーションの造型にアートの価値がシフトしている現在において、これは、彼らが、自分たちの集団の在り方自体を作品として提示している側面があるということを意味している。造形物として物質的にアウトプットされたものというよりは、集団の関係性のあり方そのものの造型に美の中心的価値が移行しつつある状況で、「友達」のかたちを「芸術的な域」にまで高める。物質的な創造物と自身の集団のあり方のフィードバックの成果こそが、「友達アート」が「アート」足りうると判断される根拠になりうるという考え方が示されている。
この考え方は、ボリス・グロイスが「生政治時代の芸術 ―芸術作品からアート・ドキュメンテーションへ」(三本松倫代訳、『表象05』所収)で、人間の生そのものを管理する政治的権力が発達した時代において、生きることそのものの芸術性ということが述べられていたことを想起させる。「アート・ドキュメンテーションの制作に身を捧げるものにとって、芸術は生に等しい。生とは本質的に純粋な活動であり、何らかの最終結果に至るものではないからだ」(同書p115)、「そうした作品は、現代を拒絶するかわりに、状況とコンテクストに応じた新たな場を設定し、そこに自らを書き込む戦略をデザインすることで、人工物を生あるものに、反復可能なものを反復不可能なものに変容させるのである」(同書p124)。
グロイスのこの論の力点は、アート・ドキュメンテーションという、「生」を間接的に記録する手法についてであり、むしろ人工物の中に「生命」を吹き込むという方向性が強調されてはいるが、直接の「生」そのものを「作品」のパッケージの上に提示する「友達アート」の流れに接続させて考えることもできる。とくにじゃぽにかの場合は、SNS上での振る舞いが「生」の大きな部分をなしている。ネット上での生活は、常に媒体の上で生じており、記録として残るという特質を持っているがゆえに、ドキュメンテーションの作業を実質的にインターネットそれ自体が代行しているということになるのだ(それは生身の人間の「生」とは異なる、ある種の人工的な「生」でしかないとも言えるのだが、ネット上での人格を用いたコミュニケーションの比重がこれだけ増えた現状において、それをぼくらの「普通の生」から除外することもできないだろう)。
そう考えると、彼らは、日本の中で、日本的な関係性と、SNSの中に、自らの集団の在り方(「友達」のかたち)を通じて異議申し立てと介入を行う作家だと考えることができる。
さて、では、具体的に彼らの活動は、どのような異議申し立てと介入を行い、そして新しい「関係性」を創出しえたのか、あるいは、しようとしているのか。「友達アート」の有効性は、そこによって測られる必要が出てくる。
再確認するが、検討すべきは「友達」という概念の有効性と問題点である。そこでは、範囲を「友達」に狭めたことにより、内向きになってしまっているし、内輪ウケになる危険性もある。そこでは、芸術が伝統的に理念として持っていた「普遍性」とか「一般性」が失われる危険性があるだろう。じゃぽにかは、彼らが近代的な大学という制度において教育を受けたなどの条件によって、そうなりにくい条件があるのだが、「友達アート」が仮に一般化した場合、その傾向を持つことはある種の重力の働きのように(友達という語彙の使用の伝統から生じる)必然であると思われる。
このような批判や危惧はたしかに妥当だろう。しかしそれでも、一つの考え方を補助線として引けば、彼らの可能性(と芸術的野心)は、より明瞭になるのではないかと考えた。
その考え方とは、「prefigure」と呼ばれるものである。(第4回に続く)
PROFILE
ふじた・なおや 評論家。1983年北海道生まれ。SFジャンルを中心に、文芸、映画、アートなど幅広く評する。著書に『虚構内存在−筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)。編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)。共著に笠井潔との対談集『文化亡国論』(響文社)など。