日本の美術史上、世界的にもっとも知られている美術家、葛飾北斎(1760〜1849)。1999年のアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年でもっとも重要な功績を残した人物100人」で、日本人で唯一ランクイン(86位)したことでもその知名度は明らかだ。
「HOKUSAI」で、まず思い浮かべるのが「The great wave」。霊峰富士の姿を四季折々、様々な視点で描いたシリーズ「冨嶽三十六景」のうちの《神奈川沖浪裏》である。
激しい水しぶきとともになだれ落ちる瞬間の波、そのうねりに対するように頭を低くした人びとの乗る舟、ふたつの相対する動きが描く弧の向こうに、小さくも泰然とした富士の姿。ほぼ藍一色のなかに、自然の力とそこに生きる人びとの息づかいを感じさせ、富士山の絶妙な構図とともに圧倒的な印象をもたらす、北斎の代表作だ。
モネやゴッホをはじめ、19世紀末のヨーロッパの多くの芸術家にも影響を与えたジャポニスムの象徴的な作品であり、現代においても様々なデザインに応用される本作は、「錦絵」とよばれた浮世絵版画のひとつである。
江戸時代としてはかなり長寿である90歳まで生きた北斎が遺した作品は、3万点を超えるといわれる。数だけはなく、役者絵、美人画、武者絵、花鳥画といった定番はもちろん、幽霊画や後進のための「絵手本」まで、そのジャンルにおいても驚異的な広さを誇り、そのなかでもとくに浮世絵の風景画は北斎に始まるとされる。
その70年を超える画業は、版本と錦絵を抜きには語れない。本稿では、北斎の作品を、所蔵する美術館を紹介しつつ、その浮世絵版画の魅力に追ってみたい。
北斎の浮世絵を見られる美術館
まずはじめに、北斎の浮世絵の主要な所蔵先を紹介しておく。複数点あるので、各所にそれぞれ所蔵されており、時にはシリーズ全点が公開されることもあるが、見られるタイミングは限られているため、訪れる際には事前にホームページなどでチェックするとよいだろう。
太田記念美術館は、実業家・五代太田清藏が20代から晩年まで心血を注いで蒐集した作品を中心に約1万5000点が収蔵される。浮世絵の草創期から晩年まで、肉筆画と版画ともに名品を多く擁し、個人所蔵としては世界的に有数のコレクションを誇る。
山口県立萩美術館・浦上記念館は、地元出身の実業家・浦上敏朗をはじめ、オランダの浮世絵収集家、フェリックス・チコチンなどのコレクションを擁する。江戸時代を代表する絵師の名作から明治期まで約5500点を所蔵。なかでも北斎の大首絵(人物の頭部をクローズアップした錦絵)《風流無くてなゝくせ 遠眼鏡》は、世界に3点しか確認されていない貴重な作品で注目だ。
そして北斎のコレクションでは、ホノルル美術館の研究員で、浮世絵コレクターであったピーター・モースと、浮世絵研究者であった楢崎宗重のコレクションを収蔵して2017年に開館したすみだ北斎美術館も見逃せないところだ。
そして、島根県立美術館。大阪で電気スタンドの専門会社を営んでいた新庄二郎のコレクションと、浮世絵研究家で美術評論家の永田生慈のコレクション約3000点を擁する。新庄コレクションでは、本人も「コレクションの白眉」とした「冨嶽三十六景 凱風快晴」が1970年の大阪万国博覧会における展覧会で浮世絵の代表作として展示された。北斎研究家として知られた永田のコレクションは、その青年期から晩年まで、あらゆるジャンルにおよんだ網羅的な内容で知られる。こちらは2018年に寄贈され、同館と島根県立岩見美術館のみで公開が許可されている。
このほか、じつは東京国立博物館も、約7000点の浮世絵が収蔵される。これらは、国立西洋美術館のコレクションで知られる松方幸次郎が、西洋画の購入とともに海外に流出していた浮世絵を買い戻したものだ。また、千葉市美術館も優品の浮世絵コレクションで知られている。北斎の「摺物」の代表作である「馬尽」が多数揃っているのが見どころだ。
浮世絵とは何か
浮世絵とは、江戸時代初期に成立した風俗画である。戦国時代を経て、嫌なことばかりの「憂き世」ならば、せめて楽しいことを享受しようと現世を「浮世」と読み替えたことに由来するとされる。つまり当世である「いま」を描いた絵画なのだ。
浮世絵には、絵師が直接描いた肉筆画と、当時技術が向上した木版画、版本がある。木版画と版本は、絵師、彫師、摺師による協業体制の確立により、安価に大量の作品を流通させることが可能となり発展していった。ことに木版画においては多色摺が開発され、やがて鮮やかな色彩が錦繍のようだと形容された「錦絵」が誕生。江戸を中心に庶民に爆発的に広まり、大正期までその命脈を保った版画芸術となる(当時に「芸術」という言葉はなかったが)。現在は、おもにこの版画作品を「浮世絵」と呼ぶ。
浮世絵は、中国の故事や歴史物語、詩歌を楽しむ文学として、時の流行を知る情報紙(誌)として、贔屓の美人や役者のブロマイドとして、あるいは為政者を批評する新聞として江戸人に享受され、江戸の姿を現代にも伝えている。だが、そのもっとも大きな意義は、絵(画)を楽しむという文化を庶民にもたらしたことだろう。
多くの浮世絵師が誕生するが、そのなかでもダントツの画業と才能を誇るのが北斎だ。北斎は本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれ、鏡磨師の家に養子に出されるも、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟など職業を転々として、貸本屋で見た挿絵をきっかけに絵師を志したといわれている。
ちなみに北斎が6歳のときに、鈴木春信らによって錦絵が完成している。以後、浮世絵界には喜多川歌麿(生年不詳~1806)や東洲斎写楽(生没年不詳)などが登場し、全盛を誇った時代だ。
北斎は、18歳のころに役者絵で知られていた浮世絵師・勝川春章の門下となり、その才は、翌年には師の名と別号から「春朗」として主に役者絵を手がけるほどだった。デビュー時期の役者絵とされる作品は、いまだ師の影響を感じさせるが、20代後半からは、他派の絵を学んだり、西洋の透視図法(線遠近法)の表現などを研究したりしていたようだ。
やがて北斎は35歳頃には勝川派を離れて「俵屋宗理」に改号。当時の様々な流派や描法を吸収し、表現は独自のものを獲得していき、39歳の頃から「北斎辰政(ときまさ)」を名乗る。
この頃の錦絵としては、美人大首絵の「風流無くてなゝくせ」の印が、版元蔦屋重三郎(1750〜1797)との関係を伝える。「七癖」とあるが、「ほおづき」と「遠眼鏡」だけが現存を知られ、「遠眼鏡」は、世界で3点のみの貴重な1枚だ。
歌麿の美人画の全盛期であり、写楽が衝撃的に登場した頃。北斎は、浮世絵師の主要な仕事である錦絵からは距離を置き、もっぱら特注品の木版画である「摺物」や、当時の知識人の間で流行っていた狂歌に絵を添えた「狂歌絵本」などを手がけている。
摺物は、正月の挨拶やなんらかの記念として配られたもので、いまでいうエディションナンバーつきの版画といったところか。色のほかに金銀で摺ったり、空摺(からずり)と呼ばれる画面に凸凹を付けたり(エンボス加工)と、注文主の教養やこだわりを表した豪華な摺のものが多い。ぜひ近寄ってじっくり堪能してほしい。
多くの職種が関わった浮世絵
ところで、先述の通り、版画である浮世絵は、絵師、彫師、摺師のコラボレーションにより完成される。絵師がどれほど優れていようとも、その繊細な線を正確に版木に再現し、何枚にもわたる版木に、微妙な色を載せ、1枚の紙に重ねて摺る卓越した技術がなければ、作品としては成り立たないのだ。
さらに、どんな画題を誰に依頼し、どんな摺りをほどこし、いつ出すのか、これらをプロデュースしていたのが「蔦重」をはじめとする版元だ。彼らのマーケティングとセンスがあってこそ、絵師たちはその才を世に知られる。北斎の天賦の才はもちろんだが、その絵をみごとな作品として成立させていた彼らの存在は無視できない。木版彫刻師のもとで学んだ経験も持つ北斎は、彫師、摺師をたいへん重視していたと伝えられる。彼らにとってはよき理解者であるとともに、厳しい注文者でもあったろう。信頼関係に結ばれた丁々発止のやり取りを想像しながら、あるいは版元印にプロデューサーの思いを読みとりながら鑑賞するのも、浮世絵の醍醐味だ。
そして、現在知られる「葛飾北斎」を名乗っていたころ、その名は、錦絵ではなく版本の挿絵で江戸っ子たちに知られていくようになる。
曲亭(滝沢)馬琴とタッグを組んだ歴史物読本、『新編水滸画伝』や『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が大ヒット(馬琴とは途中で喧嘩別れするが)。大胆なスペースの使い方、音が聞こえてきそうな迫力ある画面は、ときに物語を超えて人々を熱狂させた。北斎は一流の絵師として認められ、弟子も増えていく。
絵に関すること以外には無頓着で知られる北斎は、弟子に対しても鷹揚、ある意味放任主義で、学びたいという人間は受け入れだが、手取り足取り教えるようなことはなかったようだ。孫弟子も含めると、葛飾派を称する弟子は全国に200人以上いたともされる。
こうした弟子たちに対して、より広く、人びとが画を学べるように、と刊行されたのが『北斎漫画』である。現代のマンガとは異なり、これはいわゆる「絵手本」。絵の教科書だ。人物はもちろん、動物、植物、建築、装飾、生活、自然、妖怪・幽霊まで、この世のありとあらゆる題材を、緻密に、自由に、ユーモアたっぷりに描き尽くしたこの本は、絵師の手本にとどまらず、多くの人に楽しまれ、当初は1編だった企画が15編まで続いた。