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「ポピュリズムとナショナリズムの時代における美術評論」はどうあるべきか? 第52回国際美術評論家連盟国際会議レポート

今年10月1日から7日にかけ、ドイツのケルンとベルリンで第52回国際美術評論家連盟国際会議が行われた。「ポピュリズムとナショナリズムの時代における美術評論」をテーマに、複数のセッションが行われたこの会議では何が話されたのか。美術評論家連盟会員でキュレーティング・批評を専門とする四方幸子のレポートをお届けする。

文=四方幸子

会場風景 撮影=筆者

 あいちトリエンナーレ2019で、9月25日に「表現の不自由展・その後」が再開される見通しが発表され、翌日文化庁が補助金交付中止決定を通告した。その直後から美術関係者をはじめ広く人々の発言、署名、デモが繰り広げられるなか、筆者はドイツに飛び、国際美術評論家連盟(AICA)国際会議のベルリンでのセッションを聴講した(10月3日〜5日)。主催はAICAドイツ、後援がドイツUNESCOコミッション、助成がドイツ連邦共和国文化財団である。

 AICAインターナショナル(国際美術評論家連盟)設立70周年の今年のテーマは、「ポピュリズムとナショナリズムの時代における美術評論」。世界各地で顕著になっている政治・社会における不寛容や他者排斥の傾向に対し、美術においては批評的な取り組みが多くのアーティストによって近年展開されてきた。本会議はその現状を、ドイツをはじめヨーロッパ、そして世界各地から登壇者を迎えて共有し、未来の展望を検討する場といえる。翌月(11月)にベルリンの壁崩壊から30周年を迎えつつあるドイツで、第二次世界大戦から冷戦を経て現在に至るこの国の変転した政治体制の下での美術や美術評論の歴史を振り返る意味も含まれている。

挨拶するフェリッケルス・ホルテンジア ドイツ連邦政府文化財団理事

 筆者がこの会議への参加を決めたのは、9月に入ってからだった。今年から来年にかけて複数のシンポジウムを準備しているなかで、今回のテーマを気にしていたが、決定的なトリガーとなったのは、あいちトリエンナーレ2019をめぐる状況である。グローバルな議論を確認したうえで、日本との差異や共通点について検討する必要性を感じ、急遽行くことにした。

 あいちトリエンナーレでは、以下が露呈したと認識している。
(1)本会議のテーマでもあるグローバルな問題、(2)日本の美術やそれを稼働させている構造、文化政策上の諸問題、社会の諸問題(経済的分断、美術関係者と人々との「文化的分断」)、(3)日本とグローバルな社会における政治・社会そして美術における違い、である。

 このような状況を、日本におけるかつてない「文化の地殻変動」(筆者)、つまり美術をはじめ文化全般が拠って立つ基盤自体を揺るがすプロセスととらえ、危機であると同時に、美術をめぐって人々が対話を始めることで、美術と社会の関係が次のフェーズへと展開する可能性を感じていた。 

いま「ポピュリズムとナショナリズム」を語る必要性

「ポピュリズムとナショナリズム」というテーマは、世界各地で生起しているこの問題が、統一から29年となるドイツでも顕在化していることを示している。会議の冊子でダニエレ・ペリエAICAドイツ会長兼本国際大会委員長は、「美術評論:その使命、その危機」と題して、アートが社会に根ざしつつも自由な表現形態をとること、21世紀になってアートシーンが、故クリストフ・シュリンゲンジーフの例にもあるように政治的なアクティビズムの場になってきたこと、本会議では、現在直面する諸問題を見据え自由な美術評論のための対話を開くと述べている。

 冊子の挨拶文でホルテンジア・フェリッケルスとアレクサンダー・ファーレンホルツ(いずれもドイツ連邦政府文化財団理事)は、現代がまさに「文化の気候変動」(ハンノ・ロイターベルク/美術・建築ジャーナリスト)の時代であり、ポジティブな可能性として「美術の知識が象牙の塔から降り、文化が社会を結合させていく重要な醸成」に貢献しうること、しかし反面「(新たな)境界が生まれ、最悪の場合検閲」につながりうるとも述べている。そのような時代において、「美術の自由が美術評論そして美術評論家の自由と深く関わる」ことを認識し、世界各地の美術評論家が状況を共有し対話を行う必要性が表明されている。以下、時系列で記していく。

会議前に行われたツアー

10月3日(会場:ハンブルガー・バーンホーフ美術館)

 この日はドイツの統一記念日と重なった。冒頭で挨拶をした5人中4人が女性であったこと(リスベス・レボロ・ゴンサルヴェスAICA インターナショナル総裁 、ペリエAICAドイツ会長兼本国際大会委員長、フェリッケルス ドイツ連邦政府文化財団理事、ガブリエレ・クナップシュタイン本美術館館長)に加え、唯一の男性ジャック・レーハート(ドイツ統一時のAICA西ドイツ会長)が、統一時の混乱のなか、東西AICA間の十分な対話がなされないまま、東が西に組み込まれてしまったと反省を込めて語ったことが印象的であった。

 セッションは、3日間にわたり10のパネル(各回2組のプレゼンテーションとディスカッション)を中心にトーク、上映やパフォーマンスも開催された。1日目はパネル1「Nuances of Populism: Political and Cultural Dimensions」、パネル2「The Humboldt Forum and its “Cultural Heritage”」が開催、両パネルのモデレーターを、ヨルグ・ヘイザー(この3日後の10月6日にあいちトリエンナーレの国際フォーラムにも登壇した)が務めた。

 パネル1の登壇者のひとり、オリバー・マルチャルト(ウィーン大学)は、ポピュリズムが政治において終始単純化の論理をとるのに対し、美術は複雑かつ曖昧で、動的な変化をともなうことで意味の複層性に開かれていると述べた。

 パネル2は、2020年9月にベルリンに誕生する施設「フンボルト・フォーラム」をめぐって、過去のドイツの植民地政策への省察を踏まえた展望が紹介された。アルレッテ=ルイーズ・ンダコゼ(リサーチャー・ジャーナリスト)の批評的で機知に富むリーディング・パフォーマンス、トーマス・シュミット(『Die Zeit』紙編集者)による植民地やナチスの時代に剥奪した事物の返却問題の提起に加え、サラ・ヒューゲンバルト(美術史・哲学)が、フンボルト・フォーラムがポピュリストの時代において「多様な視座や語り」の場となればと語った。

 

10月4日(会場:べルリンギャラリー)

 2日目は、パネル3「Art Criticism and Society」、パネル4「The Public and the Popular」、パネル5「Art Criticism and Gender」、パネル6「Arts and Politics between Avant-Garde and Propaganda」、パネル7「Art Criticism in Eastern Europe」、最後に検閲をテーマに「ラウンドテーブル」が開催された。

 パネル3でハリー・レーマン(美学・美術評論)は、敵・味方という分極化が進む現在だが、美術は左右のイデオロギーを超越するものであり、政治のディスコースに直接関わるのではなくむしろ政治に先立つ機能を持つこと、美術評論は美術の政治化を批評的に問うことで、分極化という問題に貢献しうると述べた。コリヤ・ライヒェルト(『フランクフルト・アルゲマイネ紙』日曜版編集者)は、「誰もがプロデューサーや評論家になりうる、シンギュラリティの世界における美術評論の可能性」を提起した。  

 パネル5では、ベリンダ・グレース・ガードナー(美術理論)が「re/writing art history」と題し、1980年代のゲリラ・ガールズを事例に挙げながら、当時展覧会で格段に女性が少なかったことを指摘、「#MeToo」のうねりが美術界にも波及することで、女性アーティストの再評価が起きていると述べた。

 パネル6、7では、ポーランドや中東欧におけるポピュリズムの躍進が語られ、共産主義時代のように政治の主導者が美術や美術評論の領域に直接介入する問題が報告された。

 ラウンドテーブル「政治的検閲とその美術や美術評論へのインパクト」には、香港や英国、南米やトルコからのジャーナリストや美術評論家、アーティストが登壇。なかでもヴィヴィアン・チョウ(香港のジャーナリスト)が、いままさに現地で起きている大規模デモへの弾圧について涙を混じえ語ったことが、会場に大きなインパクトをもたらした。

 筆者はラウンドテーブルが始まる直前に、連盟会員で上智大学教授・林道郎のTwitter発信を確認した。海外の日本研究者が「日本の芸術家、ジャーナリスト、学者を支持する声明」を発表(とくに文化庁に対して「あいちトリエンナーレ2019への支援中止の決定を撤回するよう要請」)したという内容である(古都薔 Kotoba) 。議論のテーマと合致することが日本でも起き、海外から声明が出た矢先であったため、ラウンドテーブル終了間際の質疑応答のタイミングで挙手をして、あいちトリエンナーレの状況説明と上記の声明がこの日発表されたことを手短に伝えると、会場からは応援の拍手が挙がった。 

 

10月5日(会場:べルリンギャラリー)

 3日目は、パネル8「Artistic and Critical Practices and their Public Voice」、パネル9「Art Criticism and Judgement」、パネル10「Art Criticism and Discrimination」、若手美術評論家賞受賞式、そしてConclusion Panelと続いた。

 パネル8の前半では、ユリア・フォス(ロイファナ大学名誉教授)が、2016年の米国大統領選以降蔓延する金権政治の美術館への波及を指摘、「美術館の諮問メンバーと政治的資金の関係を検討する時期だ」というパフォーマンスアーティスト、アンドレア・フレイザーの言葉を引用しながら、今年になってメトロポリタン美術館やルーブル美術館、ニューヨーク近代美術館をはじめ、各地で顕著になっている兵器製造や麻薬などに関わる企業や個人の寄付を拒否する動きを紹介し、そこでの美術評論の役割を問いかけた。社会的に注視されはじめた、情報や物の来歴の透明化とエシカルな循環は(1990年代以降、植民地からの収奪という問題が博物館で問題となっていたが)、現代美術においても無視できないものとなっている。

パネル8で登壇したユリア・フォス

 同パネルの2組目では、近接するユダヤ博物館で「オープン・コール」で音源を募集し、人々の参加を促すプロジェクトを実施したミシャ・クバルと担当キュレーターのグレゴール・レルシュが、ポピュリズムに対抗するために博物館を多様な場として開く実践について語った。

 モデレーター(ノーマン・L・クレーブラット)は、ニューミュージアム(ニューヨーク)のマーシャ・タッカーが組織のフラット化を進めた事例を挙げ、会場からは米国で起きている美術館・博物館への倫理面での抗議と批評の重要性が指摘された。それに対しフォスは、要因のひとつに米国で1990年代に公的資金から私的資金主導になったことがあると述べた。

 パネル10の1組目、サベス・ブッフマン(美術史家・美術評論家)とイザベル・グラウ(編集者・美術評論家)は、「美術評論の評論」と題し、美術評論が絶滅の危機に瀕しているともされる現在、評論を社会的な差別に対する省察のメディウムと見なすことの重要性を述べた。誰でも発信可能なSNSが評論を中立化してしまったこと、同時に事実確認や内容が希薄になる懸念が示された。ディスカションでは、ブッフマンが「愛国的な時代において美術評論はいかに可能か?」と問いかけるとともに、美術評論の立ち位置がもはや絶対的な外部にはないことを指摘した。グラウは、ハンナ・アレントの言葉「評論なしでは、公共的にはなりえない」を引用し、公共性を保つうえで美術評論が果たすべき意義を語った。

 2組目のユリア・ペトラ・フェルドマン&アンティエ・シュタールは、「特権としてのアーティスティックな自由」において、「“アーティスティックな自由”とは西洋で培われた価値であり、それ自体の権利に加えて社会のオープンさや寛大さを先導する。この権利が脅かされる場合、美術評論家は怒りとともに反応する」と記している(冊子レジュメより)。それを前提に、シュタールは検閲の事例を紹介しながら「美術評論家は、いまこそマイノリティの声を聞くことが必要」と述べた。

 フェルドマンは、アクティビストが非合法的検閲や犠牲者からの「検閲」などにより作品を抑圧する力を持つことを指摘し、アクティビストに対する批評の重要性を提起した。彼女はまた「アーティストは、いかなるものでも制作し販売する自由を持つ。しかし“アーティスティックな自由”とは、全面的な自由を意味しない。政治・文化的状況がその自由を左右しうる」と言う。加えて、男女や人種などの平等は未だ幻想で現在も白人男性中心だと述べながら、『啓蒙の弁証法』(アドルノ、ホルクハイマー)に言及しつつ、ルールから逸脱する可能性が示唆された。

 会場からは「美術評論は自律的な場である」との意見が挙がり、ブッフマンはアーティストが自律的で多様であることが重要だと応えた。「いかに私たちは、リベラルな同意の価値と、複数主義や平等という左翼的価値を持つ個人の自由とを和解させられるのか?」(冊子レジュメより)という問いは、まさにあいちトリエンナーレをめぐって私たちが直面したものである。

クロージングに登場したダニエレ・ペリエAICAドイツ会長兼本国際大会委員長

問われる美術評論の可能性

 本会議で討論された諸問題──ポピュリズム、ナショナリズム、ジェンダー、検閲、デジタル化、そして美術評論自体など──は、美術や美術評論が現在内外で抱える危機の最前線であり、日本の状況と比較検討する貴重な機会となった。

 筆者は、あいちトリエンナーレを契機に、明治以降にこの国が近代システムのひとつとして受容し独自に形成してきた「美術」に内在していた諸問題がことごとく露呈したと認識している。

 それは美術、美術評論だけでなく日本社会の未来を左右する、危機と可能性を孕む「文化の地殻変動」である。グローバルで共有される政治の右傾化や格差の拡大、他者の排斥、そしてSNSによる瞬時の増幅。さらにはAIやVR、生命科学などに代表される科学技術の進展が、「人間とは何か」という問題をあらためて問いかけている時代において、美術や美術評論は、自由な想像力と創造性そして批評的視座によって社会に働きかけていく可能性の場と言っていい。

 本会議の冊子には、AICAが「美術評論のみならず、現代社会のオープンな討議の場である。AICAの行動、決定や討議は、多大な倫理的インパクトを文化のみならずグローバル社会に持ちうる」と書かれている。 AICAは第二次大戦後にUNESCOが設立を促した数々の国際組織のひとつで、近代的な背景から出発しているが、自らの存在意義を問い続けながらアクチュアルに活動を更新している。

 日本でAICAの国際会議が開催されたのは1998年、それから21年が経つ。それ以後の日本の美術の展開、そして現在直面する「文化の地殻変動」を切り抜けて、いつか遠くない日に日本において二度目の国際会議が開催されることを期待したい。

*追記:10月14日付でAICAインターナショナルより、 AICA Japanが8月7日に公開した「『あいちトリエンナーレ2019』における『表現の不自由展・その後』の中止に対する意見表明」(英語版公開は8月15日)に賛同する声明文が出された。https://aicainternational.news/news

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