篤志家であったイザベラ・スチュワート・ガードナー(1840〜1924)が収集した、幅広い時代・ジャンルにわたる美術品を公開する、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館。コレクションの素晴らしさもさることながら、1990年に起きた盗難事件でもよく知られている。
警官を装った二人組が館内に押し入り、およそ80分の間に13作品を額から切り出すなどして、持ち出し、逃走したこの事件。被害額は5億ドル(当時)に及び、史上最大の絵画盗難事件として有名だ。現在でも1000万ドルの懸賞金がかけられ、FBIによる捜査が続く未解決事件。盗まれた作品には、フェルメールの《コンサート》(1664-66)や、レンブラントの《ガラリアの海の嵐》(1633)が含まれている。
ガードナー美術館では、「館内の展示物・レイアウトに手を加えないように」というガードナーの遺志を汲んで、盗まれた絵画の額をそのまま壁に展示しており、それが失われた作品へのオマージュともなっている。
そんな空の額に注目したのが、同じくボストンを拠点にする「Cuseum」。美術館などの文化施設に、デジタルツールを使った、ユーザーエクスペリエンス向上のためのソリューション提案を行う会社だ。具体的には、スマートフォンアプリ上で、作品ガイド、館内マップなどのコンテンツ配信ができるツールなどを提供している。
Cuseumは、ARを利用してガードナー美術館の空の額に、盗まれた絵画のイメージを再現する試みを始めている。「Hacking the Heist」と名付けられたこのプロジェクトは、アップル社のARKitプラットフォームを利用しており、アプリが入ったデバイスを空の額にかざすと、盗まれた絵が浮かび上がる。これまで、盗まれたうちの2作品、レンブラントの《ガラリアの海の嵐》と《黒装束の婦人と紳士》(1633)のARが完成しており、残りの作品についても順次対応予定とのこと。
ちなみに、「Hacking the Heist」は、ガードナー美術館から依頼されたプロジェクトではない。地元ボストンへの郷土愛に加え、時間とともに盗難事件が風化しつつあるのを感じ、自分たちの技術で何かできないかと、Cuseumが自主的にスタートしたという。残念ながら、「Hacking the Heist」は実験プロジェクトのため、現段階で、一般公開はされていない。しかし、Cuseumは今後事業を通じて、ARを利用した、美術鑑賞の経験向上を進めていくという。
Cuseumは2017年12月、ペレス・アート・ミュージアム・マイアミと共同で、世界初のAR展覧会を開催した。以降、展示物に関する情報に、来場者が直感的にアクセスできるようなプラットフォームの構築に着手している。すでにいくつかの美術館と提携し、ARを活用した教育用コンテンツの制作が進んでいるという。
Cuseumの創設者ブレンダン・シエコは「美術鑑賞のような、教養を育む経験の質の向上に、ARが大きな役割を果たすことを確信している。例えば、スマートフォンを作品にかざすだけで、キャプションが魔法のように浮かび上がるようなツールをイメージしてほしい。今後もARを活用したプロジェクトを発表していく予定だ」と語る。
従来の、壁に貼られた解説ラベルはどうしても「読まされている」感があるが、ARを使うと、鑑賞者が興味を持った作品に関する情報を「自ら取りにいく」ことになる。これによって作品についてより深く知ることが、能動的な行為となる。一見、些細な違いにも思えるが、鑑賞体験の質や鑑賞者の探究心に影響を与える可能性がある。果たして、ARを活用した美術鑑賞がこれから広がっていくのかどうか、今後の動向に注目したい。