──「和世陀」のイメージはどこから生まれたのでしょうか。
できあがったものを見ると、こうしたいと僕がイメージしていたように見えちゃうんだけど、そうではなくて。どんな建物も、事情があって、そうするしかないから、こうなった。ああしたい、こうしたいと言ってそのままできたものはひとつもない。
「和世陀」もイメージというより、自然とできたかたちなんだよね。6階建ての集合住宅をつくるということだけは決まっていて、敷地がいびつな五角形なので、梁と柱で構成する直線型よりは壁式構造を利用したカーブが合うなと。この規模の住宅にかけられる予算も含めて合理的に考えた結果なんです。
外壁のコンクリート彫刻がだいぶできてきて、まだビニールを被っていた頃、「突飛な建築ができる」と噂が広まって。彫刻家やらタイル職人やらが集まってきて、「建築家が自らコンクリートで彫刻をつくっていることが面白い、こいつは仲間だ。自分も参加したい」と言いだして。それで「じゃあ、やってみろよ」と(笑)。
──「和世陀」にはいろいろな装飾が随所に散りばめられていますが、参加したアーティストや職人は何人くらいいるのでしょうか。
15、6人くらいかな。外壁彫刻は僕がぜんぶやっちゃったけど、外壁から飛び出ているアルミ彫刻は平田くん、床の大理石モザイクは当時イタリアで修行していた上哲男、ロビーにある手の彫刻は竹田光幸さん、他にもたくさん。僕から声をかけたのは竹田さんだけで、ほかはみんな自然と集まってきた。具体的な発注はぜずに、僕からのスケッチもドローイングなしで、できあがるのを待つ。
ぶつかってみないとわからない。これも縁ってことだね。意欲のある若いアーティストの活躍の場を増やしたいという思いもあるし、本人の持っている可能性を引き出したい。自分のことを表現したいと思っている人はダメ。純粋につくりたいという意欲にあふれているかどうか、その人間を見分けることが、僕の大事な仕事なんだ。
──完成した当時の反響は、どのようなものでしたか。
こんな学園都市に、とんでもないラブホテルみたいのができた(笑)。
ビルの完成と同時に、協働したアーティストや職人の作品発表も兼ねて合同展覧会を開いたんだよ。「建築そのものを展覧会する」という、当時にしては画期的なイベントだったようで、『週刊新潮』が「ラブホテルか芸術か」というタイトルで巻頭5ページのグラビアで取り上げたのをきっかけに、さまざまな媒体から取材を受けたよ。いまでも時折、取材を受ける。30年以上もずっと話題になる建築って、なかなかないんじゃないかな。
──建築名が「和世陀(Waseda el Drado)」。他にも梵さんの建築は当て字のような建築名が多いですが、なぜこのような名前に至るのでしょうか。