EXHIBITIONS
αMプロジェクト2023–2024
「開発の再開発」vol. 7 大石一貴|消滅Ⅱ
gallery αMで「αMプロジェクト2023–2024『開発の再開発』vol. 7 大石一貴|消滅Ⅱ」が開催されている。
大石一貴は1993年山口県生まれ。彫刻家。自他の持つ断片的な経験の時空間と、それを知覚させる物理的な事象に着目し、不確実な物事の隙間と余白、間(ま)にまつわる彫刻・インスタレーション・映像・詩などのメディアで制作、発表を続けている。
本展に寄せて、ゲストキュレーターの石川卓磨は次のように述べている。
「大石一貴の『消滅Ⅱ』は、『物質と想像力』の関係を再開発するために、彫刻と詩というふたつの方法論を併存させている。大石にとって『消滅』という観念を支える物質的リアリティは、作品の中心的な素材である水粘土の脆弱性や経年変化にある。この水粘土を身体的・経験的に観察し続けるなかで、『消滅』に対する彼の想像力が生まれている。大石にとって水粘土の特性とは、たんなる物質の条件に留まらず、作品の本質的な変容・崩壊を引き起こす可能態となる。大石はこの特性から世界を解釈する仮説や方法論を展開する。つまり水粘土は物質であると同時に観念的なメディウムでもある。この関心は、ガストン・バシュラールの『想像力の哲学』と共鳴する。
『かくて我々は、想像力の哲学の一教義は、なによりもまず物質的因果律と形式的因果律との関係を研究すべきであると信ずるのだ。この問題は彫刻家にとってと同じく詩人にとっても課せられる。詩のイマージュもまたある物質をもっているのだ。』(*)
物質的因果律は『物質的要因に生命を与える想像力』、形式的因果律は『形式的要因に生命を与える想像力』として説明できる。バシュラールは物質と言語(いわば彫刻と詩)を、異質な対象としてではなく、想像力というひとつの視座からとらえようとする。ただしその想像力を、物質的想像力と、形式的想像力とに分けて定義し、前者の重要性を強調するのである。物質的想像力は物質の『個別性』に、形式的想像力は分類を可能にする『全体性(共通性)』に焦点を当てることだ。例えば、ひとつの黒い碁石に『個人』と同様の個別性を見出すか、それを黒い碁石たらしめる全体性をとらえるか、というふたつの軸である。バシュラールは、美学において物質が持つ個別化の機能は、過小評価されてきたと指摘している。この問いは、大石が詩にも展開しており、『わたし』と記された文字に、ほかの『わたし』とは異なる個別性を見出そうとすることにもつながっている。
こうした物質的想像力を前提にしなければ、大石が展開する『消滅』を理解することは難しい。なぜなら、『わたし』が消える・消えたことを認識するためには、『わたし』が存在する・存在したことを認める必要があるからだ。
さらに、大石は『消滅』において、ドッペルゲンガーとの遭遇という神話的現象を示唆している。ドッペルゲンガーの遭遇は、対消滅という素粒子の現象と類似する。対消滅で物質と反物質が出会うと互いに消滅するのと同様に、ドッペルゲンガーも自分自身と出会うことで、どちらかいっぽう、あるいは双方が存在しなくなるといわれる。このアナロジーを通じて、彼は『消滅』を構築している。大石は、『物質と想像力』の可能性をSF的な思考実験としてアップデートすることで、彫刻と詩の伝統的な関係に新たな視座を与えている」(展覧会ウェブサイトより)。
*──ガストン・バシュラール『水と夢——物質の想像力についての試論』(第七版)小浜俊郎・桜木泰行訳、国文社、1982、p12
大石一貴は1993年山口県生まれ。彫刻家。自他の持つ断片的な経験の時空間と、それを知覚させる物理的な事象に着目し、不確実な物事の隙間と余白、間(ま)にまつわる彫刻・インスタレーション・映像・詩などのメディアで制作、発表を続けている。
本展に寄せて、ゲストキュレーターの石川卓磨は次のように述べている。
「大石一貴の『消滅Ⅱ』は、『物質と想像力』の関係を再開発するために、彫刻と詩というふたつの方法論を併存させている。大石にとって『消滅』という観念を支える物質的リアリティは、作品の中心的な素材である水粘土の脆弱性や経年変化にある。この水粘土を身体的・経験的に観察し続けるなかで、『消滅』に対する彼の想像力が生まれている。大石にとって水粘土の特性とは、たんなる物質の条件に留まらず、作品の本質的な変容・崩壊を引き起こす可能態となる。大石はこの特性から世界を解釈する仮説や方法論を展開する。つまり水粘土は物質であると同時に観念的なメディウムでもある。この関心は、ガストン・バシュラールの『想像力の哲学』と共鳴する。
『かくて我々は、想像力の哲学の一教義は、なによりもまず物質的因果律と形式的因果律との関係を研究すべきであると信ずるのだ。この問題は彫刻家にとってと同じく詩人にとっても課せられる。詩のイマージュもまたある物質をもっているのだ。』(*)
物質的因果律は『物質的要因に生命を与える想像力』、形式的因果律は『形式的要因に生命を与える想像力』として説明できる。バシュラールは物質と言語(いわば彫刻と詩)を、異質な対象としてではなく、想像力というひとつの視座からとらえようとする。ただしその想像力を、物質的想像力と、形式的想像力とに分けて定義し、前者の重要性を強調するのである。物質的想像力は物質の『個別性』に、形式的想像力は分類を可能にする『全体性(共通性)』に焦点を当てることだ。例えば、ひとつの黒い碁石に『個人』と同様の個別性を見出すか、それを黒い碁石たらしめる全体性をとらえるか、というふたつの軸である。バシュラールは、美学において物質が持つ個別化の機能は、過小評価されてきたと指摘している。この問いは、大石が詩にも展開しており、『わたし』と記された文字に、ほかの『わたし』とは異なる個別性を見出そうとすることにもつながっている。
こうした物質的想像力を前提にしなければ、大石が展開する『消滅』を理解することは難しい。なぜなら、『わたし』が消える・消えたことを認識するためには、『わたし』が存在する・存在したことを認める必要があるからだ。
さらに、大石は『消滅』において、ドッペルゲンガーとの遭遇という神話的現象を示唆している。ドッペルゲンガーの遭遇は、対消滅という素粒子の現象と類似する。対消滅で物質と反物質が出会うと互いに消滅するのと同様に、ドッペルゲンガーも自分自身と出会うことで、どちらかいっぽう、あるいは双方が存在しなくなるといわれる。このアナロジーを通じて、彼は『消滅』を構築している。大石は、『物質と想像力』の可能性をSF的な思考実験としてアップデートすることで、彫刻と詩の伝統的な関係に新たな視座を与えている」(展覧会ウェブサイトより)。
*──ガストン・バシュラール『水と夢——物質の想像力についての試論』(第七版)小浜俊郎・桜木泰行訳、国文社、1982、p12