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人間と物質展

10th Tokyo Biennale: Between man and matter

 第10回日本国際美術展の名称。「総コミッショナー」に美術評論家の中原佑介を迎え、1970年5月に東京都美術館で、6月に京都市美術館で、7月に愛知県美術館で、8月に福岡県文化会館で開催された一連の展覧会である。英語タイトルに「Between man and matter」と名付けられていることからもわかる通り、中原の意図した名称は「人間と物質のあいだ」であったが、主催である毎日新聞社の意向によって日本語タイトルから「あいだ」が削られたとされている。ビエンナーレ形式の同展は、前回展までは奇数年に開催されていたが、68年に開かれたヴェネツィア・ビエンナーレの学生運動による混乱を背景にして、開催を1年間延期することが決まり、加えて、それまでの国別参加制を廃することとコミッショナー制を新設することが決められた。その結果、同展は日本国内で最初にキュレーションが行われた大規模国際展とみなされるようになった(しかし、開催当時は「キュレーション」という語は用いられていなかった)。

 中原は準備期間中に海外視察を積極的に行っており、とくにドイツで見たハラルト・ゼーマンによる「態度が形になるとき」展からは強い影響を受けている。そのため「人間と物質展」にはゼーマンの展覧会に出品したアーティストも数多く参加しており、アルテ・ポーヴェラ、もの派、コンセプチュアリズム、ミニマリズムなどの当時最先端のアーティストら40人が国内外から招集されることとなった。また、カタログは展覧会を起点に「事前」のものと「事後」のものの2冊がつくられており、とりわけ前者のものではアーティスト1人あたり3ページが均等に充てがわれ、「参加プラン」や「レイアウト」を自由に発表するという実験的な試みが行われた。さらに、展覧会の実施に際しては多くのアーティストが滞在制作を行い、会場(とりわけ東京都美術館)は巨大なインスタレーション空間と化した。

 後年から高く評価されている同展においては、その評価の要因のひとつとして、主催が新聞社であったことも見逃すことはできない。当時開かれた現代美術展としては異例の数とも言える関連記事が現在も残されているのだ。物質としては会期終了後に残ることのないインスタレーション作品に対して、豊富に残されているカタログやレビュー等の印刷物が本展の歴史的評価の向上に少なからず寄与したことは間違いないだろう。

文=原田裕規