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ヴァシリー・カンディンスキー

Wassily Kandinsky

 ヴァシリー・カンディンスキーは1866年ロシア・モスクワ生まれ。抽象画家の先駆けであり、表現主義の絵画から幾何学的に構成される作風へと転じた。モスクワ大学で経済学・法律学を修了。モスクワで見たクロード・モネの「積み藁」は、画家となる決意を固めてくれた作品となっただけでなく、絵画が対象の再現にとどまらないことの発見ともなった(この作品を初めて見たとき、何が描かれているかは認識していなかったという)。96年にミュンヘンの画塾に入り、1900年にミュンヘン美術アカデミーに入学。06〜07年にパリを旅行し、フォーヴィスムを知る。08〜09年のあいだ、ドイツのムルナウに数回滞在。田園風景を題材とした作品には、フォーヴィスムの影響を思わせる色彩や太い線が表れる。同じ頃、ルドルフ・シュタイナーの神智学の講演を聴講。10年に抽象絵画の始まりとされる水彩の小作品《無題》を発表し、11年にフランツ・マルクらとともに「青騎士(ブラウエ・ライター)」を結成。フランツ・フォン・シュトゥックに学んだ象徴主義から、目には見えないものを描こうとする表現主義へと移行し、さらに画面を構成するかたちを単純化していく。青騎士の刊行物には日本の浮世絵が掲載されるなど、ひとつのグループではあったものの作家それぞれが自由な気風だった。

 色を音としてとらえる共感覚を持っていたカンディンスキーは、リヒャルト・ワーグナーやアルノルト・シェーンベルクの音楽にも感化されつつ、11年に主題を設定せずに色とかたちで絵画を表現することを論じた『芸術における精神的なもの』を出版。自身の表現を主に、外的なものを受容する「印象」、内にある記憶などをもとに感じたままを描く「即興」、その集大成としての「コンポジション」の3つに分類している。14年にドイツからモスクワに戻り、17年のロシア革命を経験。翌年に教育人民委員会の造形芸術・工芸芸術部に参加する。公職に就いたため集中した制作が難しくなる。第一次世界大戦後に建国されたワイマール共和国で開校した「バウハウス」(1919〜1933)の壁画の教授として招かれ、22年にドイツへ。同校のデッサウへの移転と同時期に、理論書『点と線から面へ』(1926)を刊行する。バウハウスの教授時代には、円や三角などを多用した作品に取り組むなど、多様な思想や技法、ミュンヘンでの活動期から親交のあったパウル・クレーら当時の美術界を牽引する面々、そして生徒たちから刺激を受ける環境で試行錯誤できた。そしてナチスの統制によってバウハウスが閉校となるまで後進の教育に努めた。

 ナチスの圧政が厳しくなると33年にフランスへ亡命。パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌを新たな住まいとし、ジャン・アルプやジョアン・ミロらと交流。バウハウス時代からそのかたちに関心を抱いていた、胎児や微生物などを思わせる生命体が作中に登場するようになる。晩年の代表作に、生き物のような小さな形態が散りばめられた《縞》(1934)や《空色》(1940)など。かたちはますます自由になり、やがて宇宙的な作品世界へと到達する。44年没。