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マルク・シャガール

Marc Chagall

 マルク・シャガールは1887年ロシア(現ベラルーシ)生まれ。ユダヤ人の両親のもと、居留地ヴィテブスクで幼少期を過ごし、自身も敬虔なユダヤ教徒として育つ。ヴィテブスクとベラルーシの美術学校で学び、1910年に渡仏。パリのアパート兼共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」では画家のアメデオ・モディリアーニや詩人のギヨーム・アポリネールらと出会い、芸術家たちとの交流を通じて、フォーヴィスムやキュビスム、オルフィスムなどの動向にふれる。エコール・ド・パリに加わったシャガールはそのなかで様々な影響を受けながらもひとつの様式におさまらず、郷愁を感じさせる独自の作風を確立していく。

 初期には《私と村》(1911)や《バイオリン弾き》(1912〜13)などを制作し、14年に初個展を開催。その後一時帰国を予定するも、第一世界大戦勃発のためやむなくロシアにとどまる。15年にベラ・ローゼンフェルトと結婚、翌年には娘が誕生。17年にロシア革命が起き、地方美術民委員に任命されると、ヴィテブスクにおける美術学校の設立に携わる。20〜21年にはモスクワのユダヤ劇場のための舞台装置の制作に協力。しかし美術教育の方向性の違いや政府との関係悪化、妻の生家が襲撃を受けたことなどを理由にロシアを離れることを決め、ベルリン滞在を経て一家でフランスに移住する。

 郷里への強い思いや、聖書を題材としたシャガール。牛や鶏、恋人たちが浮遊する夢の世界を描いたような作品を目にしたシュルレアリストからの接触があったものの、シャガールは内にあるものは幻想ではなく現実であり、あくまで自身はリアリストであることを主張した。23年にパリでの活動を再開させると、初めての版画制作および自伝『わが回想』の上梓を計画。版画に対する探求はのちの傑作「ダフニスとクロエ」シリーズとして大成する。37年にフランスの市民権を得るも、ナチス党から「退廃芸術」の作家のひとりに名指しされ、迫害を逃れて南仏のゴルドへ住まいを移す。38年に社会情勢や自らの不安を反映するような《白い磔刑》を制作。いよいよ41年にアメリカに亡命し、ピエール・マティス画廊の援助を受けて作品の発表を続ける。アメリカ時代には、ロシアの著名な演出家からの依頼でバレエ『アレコ』の舞台装置も手がける。44年にパリ解放の知らせが届く頃、ベラが感染症にかかり逝去。最愛の妻の亡き後に《彼女をめぐって》(1945)を描き、以降の作品は宗教性や神秘性を深めていく。47年の大回顧展の開催に際してパリを訪問。この地に戻ることを決断し、48年にアメリカを発つ。

 その後、南仏のヴァンスに定住し、50年代はステンドグラスの制作に注力。64年、政治家であり作家のアンドレ・マルローからの依頼を受けたパリ・オペラ座の天井画が公開される。絵画をはじめ、版画や陶芸、ステンドグラス、壁画と多作だったシャガールは、すべてのものには神の愛が宿るとする「ハシディズム」の考えのもと、生涯で「愛」と「聖」というテーマを貫いた。20世紀を代表する宗教画家のひとりでもあり、その作品は戦下にあって、そしていまも人々に寄り添う。73年、ニースに国立マルク・シャガール美術館が開館。85年没。代表作に、絵画《誕生日》(1915)、《孤独》(1933)、《緑衣のベラ》(1934-35)、シナゴーク(教会堂)のために手がけたステンドグラスのシリーズ「エルサレム」(1960〜62)などがある。日本では青森県立美術館が、バレエ『アレコ』のための舞台背景画3点を収蔵・展示している。