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ミケランジェロ・ブオナローティ

Michelangelo Buonarroti

 ミケランジェロ・ブオナローティはイタリア・ルネサンス期を代表する彫刻家、画家。1475年、トスカーナ地方のカプレーゼに生まれ、画家ドメニコ・ギルランダイオに師事する。早くからメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコの庇護を受けて、同家が収集した古典彫刻から学ぶとともに、人文主義者らの集まりに参加。とくにドナテッロの彫刻に傾倒し、絵画はマサッチオやジョットなどから影響を受けた。92年のマニフィコの死去、フランス王シャルル8世の進軍、メディチ家の追放が続くと、ボローニャに避難。この間、ラファエーレ・リアリオ枢機卿に見出され、96年に初めてローマを訪問し、24歳の時に出世作《ピエタ》(1498)を完成させる。純潔を表現したマリアに対し若すぎるとの批判もあったが、死したキリストを膝の上に乗せ、悲しみに暮れる聖母の姿は人々に強い印象を残した。

 1501年に共和制下のフィレンツェに戻ると、市の依頼でヴェッキオ宮殿(現・フィレンツェ市庁舎)の前に《ダヴィデ》(1501〜04)を設置。彫刻や絵画における人体のポーズは、《ラオコーン像》など古代彫刻からしばしば手掛かりを得た。教皇ユリウス2世の命で再びローマに滞在。最初に注文を受けた墓碑制作から一転、08年からシスティーナ礼拝堂の天井画に着手する。旧約聖書の場面《天地創造》や《預言者と巫女》などからなる壮大な天井画には約300もの人物が登場し、4年の歳月をかけてほぼひとりで描き上げた。同じ頃、レオナルド・ダ・ヴィンチととともに、フィレンツェ市庁舎大広間の壁画制作者に指名され、ミケランジェロは《カッシーナの戦い》を描く予定だったが、ローマに戻ったために実現しなかった。

 ローマとフィレンツェを行き来していたミケランジェロは、建築家としてメディチ家からも注文を受けており、着手に至らなかったサン・ロレンツォ教会正面、メディチ家の新聖具室(サン・ロレンツォ教会内、メディチ家礼拝堂)や、当時のルネサンス建築と比べ異色を放つラウレンツィアーナ図書館などを設計。メディチ家から恩恵を受けていたが共和制政府に参加し、命の危険にさらされながら軍事技師も担う。しかし革命軍は敗れ、復権したメディチ家に従う。

 いっぽうローマでは、ユリウス2世の墓碑の制作を続けながら、36年にはシスティーナ礼拝堂のために《最後の審判》を描き始めた。約5年をかけて完成させた壁画には、キリストを中心に右と左、上下で天国と地獄に招かれる人々が配置され、皮だけにされた男はミケランジェロの自画像とされている。非難されたために、裸体を隠す布はのちに弟子によって描き加えられた。彫刻家であることを自負していたミケランジェロだが、システィーナ礼拝堂の仕事をはじめ、画家としても優れ、現存する唯一の板絵《トンド・ドーニ(ドーニ家の聖家族)》に見られるらせん状の人体表現(フィグーラ・セルペンティナータ)がマニエリスムの基盤となるなど、ルネサンス以降にも影響を与えている。

 46年、サン・ピエトロ大聖堂の改築の指揮を任され、最初の建築にあたったドナト・ブラマンテの構想に合わせて半円形の天井(クーポラ)を考案。多くの功績を認められ、ローマの市民権を与えられる。晩年まで制作に取り組み、絵画ではバチカンのパオリーナ礼拝堂を飾る《聖ペテロの殉教》(1546〜50)、《聖パウロの回心》(1542〜45)を描く。彫刻の遺作は《ロンダニーニのピエタ》。64年にローマで没。