ARTISTS

竹内栖鳳

Seiho Takeuchi

 竹内栖鳳は「東の大観、西の栖鳳」と並び称された、明治から昭和に至る京都画壇の中心的人物。1864(元治元)年、京都府京都市上京区に生まれる。父は料理屋「亀政」の主。13歳で四条派の画家に絵を学び、17歳で幸野楳嶺に師事。「楳嶺四天王」のひとりとして頭角を現し、83(明治16)年より、菊池芳文らとともに京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の出仕となった。翌年、第2回内国絵画共進会に出品し褒状を受け、以降、内国勧業博覧会、日本美術協会、青年絵画共進会、日本絵画協会などに出品し、数々の受賞を続ける。

 87年、西陣の織物業を営む高山家の長女と結婚、「亀政」の筋向かいに住み、画家として開業。教職のほか髙島屋意匠部にも勤務し、美術染織品の意匠に携わった。師の楳嶺が没した95年には、京都市立美術工芸学校の教諭、日本青年絵画共進会の審査員となる。1900年、パリ万国博覧会の視察を任命され、およそ半年の期間、渡欧。各流派の筆意が混在した画風が一時は「鵺派」とも揶揄されたが、以降、円山四条派の伝統的な写生を基礎に、西洋絵画や中国古典絵画の写実性を取り入れ、代表作《斑猫》(1924)に見られるような、独自の日本画を確立していく。07年より文展の審査員を務め、13(大正2)年に帝室技芸員となる。37(昭和12)年、文化勲章を受章。晩年はたびたび病臥に伏しながらも絵筆を執り続け、42年、78歳の生涯を閉じた。